《病草紙》にみる笑いとまなざしについて
 2003年度卒業論文要約
佐藤千賀子 
(29951068)

はじめに
 《病草紙》は京や大和の国で見聞した奇病や不具を集めた絵巻であった。画面全体の作風の様式により十二世紀後半から末葉の作と考えられている。現在、一図ずつに切り離されており、絵巻の体裁はしていない。京都国立博物館に国宝として10面、その他断簡等が香雪美術館や福岡市美術館、他緒家等に分蔵され、合わせて21段が現存している。
 病苦をテーマといて扱いながらも画面には暗く悲惨な趣は感じられない。特に病人をまなざして笑う人々の表情が印象的である。好奇的・嘲笑的に描いたこの《病草紙》から観者は何を読み取っていたのであろうか。なぜ、画中の人々は病人をまなざして笑うのか。《病草紙》の笑いの意味を「嗚呼なること」ということをもとにして考察していく。
一章 先行研究に見る《病草紙》
 先行研究を大きくまとめると、製作環境論、主題論、制作目的論などが取り上げられてきた。また、近年の加須屋論文で特出する点は、詞書に注目し、詞書の表していることと両面に描かれていることとの差に言吸したことであると思われる。詞書に注目するということは国文学的立場からの《病草紙》分析も可能にする。絵巻の構造・基本形態からみても、詞書から国文学的に絵巻を読み取っていく方法は絵から絵巻を分析していくのと同様に有効な見方が得られると思われる。実際、近年になり国文学の分野からの《病草紙》研究もなされ始めている。絵巻と文芸作品との関わりについては大変深いものがあり、絵と詞の補完性は非常に高い。説話文学と絵巻との関わりを、時代の中で盛んに説話が絵巻化されていって関連性を考察する。
二章 《病草紙》の中の笑い
 《病草紙》の画面上の各場面事に登場人物や傍観者による笑いやまなざしの種類を整理・分類を行い、画面上の笑いやまなざしの大まかな分析を試みるなかで、様々な階級の人々が笑いやまなざしの対象になっていることを導き出す。また、詞書の中に出でくる笑いの様子を分析、検討する。詞書に現れる笑いを「おこつきわらふ」という言葉の「おこ」という部分に注目し、その語意を考察する。「おこ(ヲコ)」とはおろかなことという意味であるが、単に「おろかなこと」「ばか」では括りきれない何かがこの詞書の「おこ(ヲコ)」から感じれること、その何かがこの詞書の「おこ(ヲコ)」から感じられること、その何かがこの《病草紙》の笑いやまなざしを解く鍵になりうるように思えることに言及していく。
三章 同時代の説話文学における笑い
 当時において「ヲコ」として表されていたものを知る手立てとして『今昔物語集』を取り上げる。『今昔物語集』によって体系的に分類されて編纂されている当時の笑い「嗚呼(ヲコ)」を検討し、検証することで《病草紙》の笑いやまなざしも見えてくると思われる。『今昔物語集』の「嗚呼なること」として笑いを喚起させるものが「逆転」であり「対比」であることを基に、先行研究をもとに巻二十八全体の笑いを分類してみる。身体にかかわる内容を持った二十八−20から25の中から、20・21話の二つの話を検討することにより笑いの一つの構図が見えてくる。それは、身体についての笑いの種に対して権力などを持つ強者からのなんらかの「圧力」が入り、そのことを受けて下の者が機転・機知・物云いを働かせて、立場などに逆転が生じ、その対比がさらに一層笑いを拡大させるというものである。
四章 《病草紙》と笑い
 《病草紙》の詞書中で嗚呼を喚起させる『今昔物語集』の笑いの構図に似ているように思われる「侏儒」「口臭の女」「肥満の女」を取り上げ詞書の中に見る嗚呼の要素や画面上に見る嗚呼の要素を検討してみる。詞書と画面にも嗚呼の笑いの構図を確認することができる。特に画面においては、笑う者(見る側)と笑われる者(見られる側)という大きな二項対立をはじめとして登場人物の中に二項対立の形の関係性が見て取れる。そのことから二項対立という構図を使い、《病草紙》には至るところに「嗚呼」を誘う「逆転」や「対比」の要素がちりばめられているということがわかる。それはその対比のコントラストや逆転の構図が鮮やかであれば鮮やかなほど「嗚呼」が際立ち、より笑いを誘う形になっていたのである。
おわりに
 《病草紙》には「嗚呼なることは」として二項対立の構図の中に逆転と対比の関係が見え隠れしていた。その対立は人間対人間が激しくぶつかり合うリアルな関係を持ったものであった。《病草紙》は笑いの構図の中に潜む逆転と対比ということを用いて人間同士がぶつかり合う現実の世界の有様を取り上げようとしたものだったのではないだろうか。人間を現実の世界の中で捉えようとする作品であると思われ、中世的な人間のリアルさを見つめるまなざしがそこにあったのではないかと思われる。