カラヴァッジョのリアルな宗教画の意味
 2003年度卒業論文要約
北原みゆき 
(29951102)

 リアルに描かれたカラヴァッジョの宗教画は、作品を発表するごとに十七世紀のヨーロッパの人々を驚かせていた。宗教画を描く上で、モデルに一般民衆や娼婦、時には死体を使ったと言われている。このことで依頼した教会や依頼主から、あまりにもリアルで世俗的であるとして受け取りを拒否された作品がいくつかある。一方、一般民衆や熱狂的なパトロンたちからは、絶賛をあびていた。そのカラヴァッジョにおいて、カラヴァッジョのリアリズムとはなんであるかということを考察し、「カラヴァッジョのリアルな宗教画の意味」について記述してゆく。

第一章 カラヴァッジョを取り囲むイタリアの宗教事情
 カラヴァッジョが生きた、この十七世紀という時代は、宗教改革の嵐がふきあれていた。プロテスタントの台頭である。プロテスタントは、聖書の俗語訳を行い、ラテン語の読めない人々にもキリストの教えに触れる事ができるようにした。ヴァチカンでは、この宗教改革に対抗する為に、トレント会議を開きカトリック教会の絶対的地位を揺るがさないように、政策を進めて行った。その、反宗教的改革の気運をあげようとして現れたのは、神聖なる歴史的場面を追随体験することを奨励していた、イエズス会とオラトリオ会だった。その追随体験を助ける道具として必要とされたのが、写実的に描かれた宗教画であった。こういった、宗教画は追随体験をできるような写実的な絵画であった為、誰が見てもわかるような描かれ方をしていた。プロテスタントの聖書の俗語訳に対抗するものの一つでもあった。

第二章 自然模倣と品位
 カラヴァッジョは、民衆をモデルに使ったりと、世俗的なイメージを持つ作品も多く、注文主である教会や依頼人に、品位にかけると作品の受け取りを拒否されたりすることもあった。しかし、熱狂的なパトロンや一般民衆の絶大な指示を受けていた事も事実であった。実際に当時カルヴァッジョが教会側から受け取りを拒否された作品、《ロレートの聖母》、《聖母の死》、《パラフレニエーリの聖母》である。どれも、写実的でカラヴァッジョの強烈なリアリズムが伺える作品であった。しかしながら、同時期に活躍していたカラッチ一族は自然を研究していたにもかかわらず、絶賛されていた。カラヴァッジョのように、死体を使ったり、モデルを使っていた。しかし、彼らとカラヴァッジョの決定的な違いにあった。カラヴァッジョの場合、自然を追求する自然偏重型であり、すべてのものをありのまま描く。しかし、彼らの場合は、自然を描写しながらも、理想美をもって足りない部分を補っていたのだ。

第三章 ロンバルティア地方の画家における写実主義からの影響
 カラヴァッジョがこのように作品を描くようになった土壌がどのようなものであったのだろうか。彼はミラノの郊外のカラヴァッジョ村に生まれ、ミラノの工房に4年間修行をしていた。彼はミラノを中心としたロンバルティア地方の画家たちに影響を受けたといわれている。ロンバルティアの画家であるモローニは、彼らが活躍していた頃にはマニエリスムの影響が色こく、軽視されていたありのままに民衆を肖像画として描くということを行っていた。そして、ロレンツォ・ロットは、聖女に注文主の妻や娘をモデルにしたり、聖なる場面に描かれた時代に実際に存在する風景などを描いていた。これらは、観るものを聖なる場面にいざなう助けとなっていた。こういった、作品たちをおそらく目にしていたに違いない。

第四章 救済を求める、熱心なキリスト教徒としてのカラヴァッジョ
 カラヴァッジョの人生は波瀾に満ちていた。犯罪を犯しては逃げまわることが多かった。しかし、そんな彼も異端諮問委員会と一切のトラブルを犯してはいなかった。彼は熱心なキリスト教徒だったのである。彼は逃げまわっている時にも、宗教画を描いていた。彼はよく自分を絵画の中へ登場させていた。彼の聖なる場面に登場する、宗教画をどんな時も描き続ける、という行為はキリストに救済を求める行為に他ならないのではないだろうか。

結論
 カラヴァッジョは、宗教改革という大きな出来事が起り、その時に必要とされていた写実的な絵を描いた。しかしそれは、その時代が要求しただけでなく、カラヴァッジョ自身も自らが要求したものでもあった。ロンバルティアの画家たちが技術の土台を作り、彼の彼自身の写実的な絵画を描くという精神的な面の土台を作ったのは、熱心なキリスト教徒であることとスキャンダラスな人生だった。カラヴァッジョのリアリズムとは、生々しく人間の渾沌とした内面をすべてキャンバスの上で表現するということである。そして、「カラヴァッジョのリアルな宗教画の意味」とは、自分が自己を投影させる事のできる、生々しいリアルな人々を描きこみ、みずからの救いを求めることであったのであろう。