はじめに 川瀬巴水による木版画は見る人を懐かしい気持ちにさせてやまない。また画面を眺めるうちに懐かしさは淋しさへとかわり、やがてその淋しさは私たちに一抹の不安を呼び起こす…この魅力はどこからくるのだろうか。本論では巴水木版画の魅力、その本質を探ってゆきたい。 第1章 大正新版画の源泉 巴水は大正新版画運動の作家のひとりである。大正新版画運動を準備したものに明治維新にはじまる文明開化による急激な欧化政策の定着がもたらした〈江戸趣味〉の流行と〈美術の枠組み〉の確立という二つの契機がある。身辺の物質的な変化の浸透は〈江戸〉を過去の良き時代としてふり返る〈江戸趣味〉を流行させた。人々は物質的な変化を精神的なもので補うことを希求し、文学や美術といったものに〈江戸〉を再現しはじめる。大正新版画の前身にはこのような世相を反映した浮世絵の複製事業があった。一方、大正新版画に先立って創作版画運動とよばれる版画の美術化をめざす運動が行われていた。創作版画運動が版画に求めた理想は当時の芸術観と美術観に根ざしたものであり、その理想とは「芸術とは作者個人の内的な表現がなされたもの」であり「美術とは先の芸術観がとくに”視覚的”に現れたもの」であった。 第2章 渡辺庄三郎と大正新版画運動 巴水を世に出した大正新版画も創作版画同様に美術品としての版画制作を強く意識したものであったが、製作過程においてただ個人性を重んずる創作版画とは違い素材や錦絵的分業といった面を過去の形式に従いながらも、内容に当時の心持ちを反映させまた共同制作のなかでそれを尊重してゆくというものであった。1909年渡辺木版画店を創業した渡辺庄三郎は輸出用版画出版のかたわら学問的な裏づけをもとに良質の錦絵複製版画を刊行する。それらは技術的にも忠実な再現が試行されており従来の複製に比べて復元としての性格が強いものであったと同時に、さらには大正新版画として複製事業の浮世絵版画研究を経て培った技法を新版に用いることが試みられた。一方、このような大正新版画はしばしば創作版画運動との対立項として位置づけられ、純粋な作家性の追究をめざす「創作版画」にたいして志の低い「複製版画」であり芸術作品としては自律性に欠けるとすくなからず評価されてきた。大正新版画はたんなる懐古趣味の愛好の延長なのであろうか。 第3章 巴水の描いた景色 巴水の作品の内容についていえることは二つある。第一は自然にたいして江戸浮世絵的ではない自然観によりいわゆる名所絵とは異なる景色が描かれている。第二は平然と緻密に観察された光、水面、雲が描かれている。以上である。巴水の画面はあえてありきたりな場面を選択しているようにも思えるが名所絵としては重要と思われる場をずらし、もしくは避けてあえて無意味にみえる場面を構図としている。これはそれまでの名所絵的な自然観を否定し、和歌の枕詞・名所のない俳句の季語のないそれを必要としないむしろ拒否するような構図が自然に対してもちいられており名所絵的な江戸浮世絵師の風景観の範囲を逸脱したものである。また画面において光、水面、雲といったものがあたかもカメラのレンズ透して見たように、またシャッターという一定の時間をそのまま切り取ったように平然と観察され描写されている。 巴水の描いた景色の内容は一見ただ懐古的に都市開発のはざまの景色をねらって描いているだけのようにも見えるが、しかしそこには全く近代に優位に置かれた感性によって見出された内容である映像として〈統一ある自律的な世界〉を持った「風景」が「写生」という近代的な視覚により描かれているのである。 第4章 巴水木版画の特徴 巴水の作品にもちいられている形式的特徴にいえることは三つある。第一は西洋絵画において完成された線遠近法により統一的な空間構成が構築されている。第二は木版の伝統的な技法である「摺り」の技術がもたらす微妙な色彩のグラデーションが多彩な光の表現と結びついている。第三は浮世絵版画としての材質感が保持されている。以上である。さらに三つの特徴は次のような構造になっているといえよう。第一と第二の点から画面に確固として構築された西洋近代的な視覚よりもたらされた「風景」という自律した絵画空間を第三の点である、それまでの工芸的技法によって構成している。 第5章 結論 巴水の木版画は、近代的な内容と前近代的な技術と素材によってもたらされ、結果的に絵画の本質である「イリュージョンという虚構」と工芸的な素材性の保持という「現実的な物質」の交差する画面を創出した。「浮世絵」の本質を遊里の文化として、すなわち現実と幻影のあわいを楽しむものとするならば巴水の作品をその延長線上に位置づけ語ることも可能ではないだろうか。
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