「エイブル・アート・ムーブメント」とは、障害のある人たちの芸術文化活動を切り口とした新しい市民芸術活動である。私はこの「エイブル・アート」という言葉に、私たち一人一人に開かれている芸術活動の可能性を見た。ゆえにこの論文では、私たち一人一人に開かれてある、芸術活動の可能性について考えていきたいと思うので、まさにこの、芸術活動の可能性を実践し続けている安彦講平の造形教室での取り組みを中心として考えていきたいと思っている。 安彦講平は、精神病院で35年間にわたって、造形教室という活動を行ってきた。私は、「エイブル・アート」を、〜できない所から始まる芸術活動だと考えているのだが、安彦講平の造形教室での活動は、まさに‘〜できない所から始まる’(そこが精神病院内ということもあるだろうが)芸術活動、一人一人の存在への細やかな配慮がなされた取り組みとなっていると思う。 例えば1つ例を挙げるとすると、造形教室での集団制作における「モナリザ分割共同画」や「集合まんだら」がある。それは、引き伸ばしたモナリザや、まんだらの同心円を分割し分担して制作し、その後つなげて完成させるというものである。そのような制作方法は、簡単に集団に入り、人と共に何かをすることが平気な人たちにとっては単なるパズルのような、つなぎ合わせの絵にすぎないとも考えられるだろう。しかし、集団制作と聞くだけで重荷を負ったような気分になる、人の輪に平気で入ることのできない人間は、分割されるその一片というものに、とても細やかな配慮を感じるのである。集団に入るのが苦手な人間もやはり、人とのつながりを感じたいと思うのである。共に何かを制作するという喜びも知りたいと思う。だから、普通に人と一緒にみんなで何かをするには気後れしてしまう人間にとって、個々にわたされる一片というものは重要な意味を持つし、そしてそれが、後からみんなのものとつながり完成するというのは、単なる絵のつなぎ合わせではない、喜びをもたらすものになっていると思う。 造形教室では、その他のさまざまな取り組みの中(個人制作、集団制作、発表の場という循環する輪のようになっている)でも、日常では取りこぼされる事々への細やかな配慮がある。失われた言葉や、失われた関係、負の感情や、自分自身の中にある本当の思い…などに対するきめ細やかな配慮がその取り組みの中には存在している。 そのような、'芸術的感性=きめ細やかな心の通い合い'のある造形教室での作品は、私たち受容者にも大きな感銘を与えている。造形教室での作品に私たちは、芸術本来のもの、‘なぜ人間にとって芸術が必要なのか’という問いへの答えを見たような気がするのである。 芸術的な活動は、さまざまな思いの中を生きていく私たち一人一人にとって必要なものであり、私たちはまたそこへ招かれているのだということを、安彦講平の造形教室での活動は、教えてくれているように思う。安彦講平はそのような活動の中で、創造を通してもう1つの生きる「場」と「関係」をつくりだしているのだと言えるだろう。そこに私たちは、力強く生きている一人一人の人の存在を感じ取り、勇気を与えられるのだと思う。 そのような安彦講平の造形教室での活動は、私たち自身もそこに加わり、力強く生きていけるのだという可能性を指し示してくれているのだと思う。「エイブル・アート」の可能性も、まさにそこにあるのではないだろうか。 そして、さらに、そのような「エイブル・アート」の活動が目指している場所とはどこなのか、と問うならば、それは、一人一人の人間の幸福=世界全体の幸福、という場所ではないだろうか。ゆえにそれら活動は、幸福への過程として終ることなく続き、私たちはそこに、芸術を媒介として(またその他の何かを媒介として)参加していくのだと思う。
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