【はじめに】論文の概要 《ルチェライの聖母》をめぐる、二つの先行研究の概要を紹介する。 【1】ラウデージ会の契約書をめぐって 1285年の契約書は、公証人ヤコポによって、ラウデージ会の会長ラーポとグイド、監督官のコルソとディーノと、画家ドゥッチョの間で結ばれたものである。ドゥッチョに依頼された仕事は、「ラウデージ会のために注文制作されたパネル」に、聖母マリアと全能の子イエスなどを美しく描くことであり、契約金額は150リラであった。 先行研究では、この「会のために注文制作されたパネル」が重要な意味を持つと考えられてきた。そこでこのパネルの仕様につき、板の構造を図解し、同時代の作例であるチマブーエの《サンタ・トリニタの聖母》、ジョットの《オニサンティの聖母》と《ルチェライの聖母》を、寸法、推定重量についての比較を行い、その特異性を検証した。 【2】聖母子像の設置場所をめぐって 史料に残る《ルチェライの聖母》に関する記述は、まずヴァザーリの『ルネサンス画人伝』に、「ルチェライ家礼拝堂とバルディ家礼拝堂の間に架けられている絵」という記述があり、1316年のラウデージ会の記録に、「礼拝堂の入口のアーチの下で賛歌の公演を行った」というもの、同じく彼らが「私たちの礼拝堂」「私たちの祭壇」と云ったというもの、さらにラウデージ会の会計帳簿に、ベンチ、葦のマット、樅の板などを聖グレゴリウス礼拝堂に支出した記録があるだけで、これ以外の具体的なものは何もない。 この聖母子像についての先行研究では、パネルがラウデージ会のために注文制作されたこと、史料に礼拝堂を保有していたと思われる記述があることから、彼らはSMNに専用の礼拝堂があったことを前提に、聖母子像は最初、会計帳簿から会との関係が深いと思われる、聖グレゴリウス礼拝堂に置かれたとするホワイト論が定説となっていた。これに対しイレーネ論は、聖グレゴリウス礼拝堂と聖母子像の関係を、図像的な考察で否定した。ベッローシ論もまた、聖グレゴリウス礼拝堂を売却したのはラウデージ会ではなく、修道士であったことからイレーネ論を支持し、さらにこれまでの翼廊説と異なる、修道士と平信徒を隔絶した今は無い、中央仕切の上に置かれた可能性を述べた。このベッローシ論を検証するために、当時の平面図を元に制作した聖堂内の構築物の復元図と、SMNの測量調査を元にした聖母子像の設置方法を、CGの技法により3案提示した。 案1では聖母子像が磔刑像の左に配置される点、磔刑像が聖堂の中心線をそれる点が疑問であり、特にSMNがドメニコ会の聖堂であったことからも、正しい教義のとおり磔刑像と聖母子像は垂直の関係をもって設置されたと思われる。よって案2と案3に絞り、次に案3において、巨大な聖母子像を聖障壁の上にどのように設置したのか、その方法を具体的に検証し、実現可能なものか考察した。しかしどの方法も確定できず、設置方法が推論の域を出ない以上、最も安全な方法である、聖母子像は聖障壁の上ではなく、床面を高くした祭壇に置かれたとする結論を導いた。 【3】史料の記述と信仰のあり方をめぐって 前述のいくつかの根拠により、ラウデージ会は礼拝堂を保有していたとするホワイト論であるが、そもそも異端審問官を護衛する軍隊として組織され、平信徒の集団であるラウデージ会が、聖障壁の内側に入ることが出来たのだろうか。ラウデージ会同様、聖ピエトロによって設立されたミゼリコルディア会は、自らの礼拝堂を別に建築していることからも、一方のラウデージ会だけにSMNは特権を認めたとは考えがたい。むしろ市民政権が誕生した三年後というフィレンツェの状況を考えるなら、都市の繁栄を象徴するかのような巨大建造物であるSMNに寄進するために、この聖母子像は制作されたと考えた方が自然ではないだろうか。となれば、おそらく彼らは礼拝堂を所有していなかったと思われる。 「礼拝堂の入口のアーチの下で賛歌の公演を行った」という史料にある「アーチ」は、これまで翼廊のアーチだと考えられてきた。しかしSMNには身廊の列柱にもアーチは存在し、聖障壁の下もまさにアーチである。「礼拝堂の入口」とは、特定の礼拝堂ではなく、聖障壁の先にある主祭壇などを指す言葉と考えることもできる。特定の礼拝堂を持たなかった彼らにとっての「私たちの礼拝堂」とは、SMNそのものだったと云えないだろうか。
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