東京芸術大学芸術資料館所蔵の重要文化財である《悲母観音》は、同大学前身の東京美術学校の創立当初、明治二十一年十一月五日、翌年の開校を目前にして死去した狩野芳崖の絶筆である。絹本着彩、縦一九六センチ、横八六、四センチ、芳崖の終生においての大作であり、日本画史の上で最初にあげられる記念碑的な作品となった。 芳崖は、日本画革新運動を理論的に指導したとされる、明治政府に教師として雇用されたアーネスト・フェノロサによって、当時衰退していた日本画壇の中からその才能を見いだされた。最晩年期のわずか五・六年の時期において、一気にその芸術性を高めることとなったが、往年本作品の評価がフェノロサの影響を受けた視点により語られてきた感が強い。小稿では、それらの言説を疑問視することで、語られたフェノロサの影響は実際どういうものであったのか、またなかば定説化されてきたフェノロサに関する文献は、果たして芳崖の作品に対する評価を例証するものになり得たのか。芳崖による一連の宗教画と本作品との明らかなる違いは、どこに起因するのかといったことなどに焦点をあて、おもに本作品制作までの芳崖の作品の変容を検証していくことで、往年の研究とは異なる視点から《悲母観音》を考察していきたい。 本作品が、明治一六年に制作され翌年パリ日本縦覧会に出品された《観音図》の描き直しから始まったことにより、その美術史的考察は《観音図》に関する論評が先行し、問題意識が原画に注がれるようになる。以降、本作品に関する研究は、祖型、典拠を探る方向をたどることとなるが、この本流をつくったのは、フェノロサが『中国と日本の美術の諸時代』の中で、図様のよく似た《魚藍観音》を取り上げ、芳崖は《観音図》と本作品の作成のために明らかにこれを利用したと記述したことによる。近年の研究においても、本作品を西洋絵画的な表現とし、フェノロサに関わる背景から論ずる視点は変わらなかったように思われる。 実際のフェノロサの影響は、芳崖の山水画の変容に見ることができる。フェノロサを知る以前の狩野派の伝統と考えられる漢画系の力強い線から、色彩と光りによる山水画表現の研究が加わり、ロマン主義的情景には西洋的色彩論を取り入れた成果が感じられ、明らかにフェノロサの美術論の影響がうかがえる。しかし、橋本雅邦や木村立獄の山水画にも同様の特徴が確認されることは、同時代の画家たちもまたフェノロサの色彩論や、空間表現を試みていたことを示すものであり、芳崖もフェノロサを知る以前に西洋画風の風景画を残しているように、西洋画研究の経験を持った狩野派の画家たちには、フェノロサの理論は受け入れやすかったのではないだろうか。 また、芳崖が観音を画題に取り上げた経緯も、フェノロサが仏教画題を積極的に勧めたことによるものとは考えにくい。江戸狩野派系においては、仏画の研究と制作はその終焉まで続けられ、維新後は鑑賞される作品として、フェノロサの講演以前に同時代の画家たちも制作している。狩野派の画家である芳崖にとって、観音図制作はそれほど特別なことではなかったと考えられる。むしろ、なぜあらためて観音図の描き直しに取り組んだのかを検証すべきであろう。フェノロサの復興仏画論の実践とみられるのは、本作品以前の《伏龍羅漢図》《仁王捉鬼》《不動明王》の代表作にみられる意匠の新しさと西洋顔料を用いた点にあるが、この三作の表現の変容には、色彩と形状を追うあまり芳崖自身の仏教観が表現できずにいるもどかしさが感じられる。 本作品と《観音図》の違いは、表情の相違からくる堅さと柔らかさにあるが、像容、衣文などの処理にみられる表現は、明代の仏画表現から日本的な表現に変えようと試みたのではないだろうか。ほぼ言説になっているかのように思われる、洋風の面貌表現とはどうしても捉えがたいのである。むしろ、《奈良官遊地取》のような実際の立体スケッチを経験したからこそ、頭光の修正も正円からやや斜め向きの像の即した楕円の形になり得たのだと推察する。このごく自然に見える立体感の修正は、嬰児のいる球体を象徴的に印象づける効果をつくっている。細かなポーズの違いに意味を探すことや、残された天女のスケッチを草稿として照らし合わせることなどは、両図の間にある時間以上の表現の違いをかえって曇らせてしまったのではないだろうか。 このように、フェノロサの影響を受けて描かれたとされてきた本作品は、日本の近代化にあった画家の習練と研究の結実であり、歴史的必然の中で生まれた作品だったと解釈したい。フェノロサの実質的な影響は、制作過程においての直接的指導だったのではなく、色彩や明暗、画題などの新しい絵画の理論によって、旧態の絵師から新しい絵画観を持つ近代の画家が生まれる一つの契機になったことである。あまりにフェノロサの影響というものが定説化してしまったことが、かえって芳崖の作品を画一的な捉え方で語ることに終始してしまっていた。結果、本作品を評価する研究も希薄になっていたように思える。
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