佐伯祐三《コルドヌリ》に見る鑑賞者のイマジネェーション
 200年度卒業論文要約
山谷 守 
(30051030)

 この論文は芸術鑑賞において、鑑賞者が作品から想像する印象のメカニズムを探ることを目的としている。研究対象とした作品は佐伯祐三の《コルドヌリ》である。何故コルドヌリなのかというと、東京・新宿の東郷青児美術館で開催されていた「ヴラマンク・里見勝蔵・佐伯祐三展」で見たときの印象にある。絵筆を置いてからかれこれ20年近く経っていたが、この頃、漠然とながらも久し振りに絵筆を持ちたいという心境にあった。だがモティーフが見つからず、何を描いてよいのかわからない、そんな時にこの作品と出合う。自分が本当に描きたかったのはこのような絵なのだと実感する。
 佐伯の描くパリ街景は、様々な都会風物のモティーフにオーバーラップした自画像であり、生への証を求めた自己表現そのものに他ならない。佐伯は彼でなければ描かないものを描いた。それは自分に合ったモティーフに出会って、夢中になって描きまくっている。自分の描きたいものに合う材料を得て、残すところなく自己を画布にさらけ出す。狂おしいばかりに気分を掻き立てられて、そのために健康を犠牲にした。作品を描くことで生への証を残そうとする激しい勢いで描かれたパリ風景は、自在な線描と大胆で奔放な色彩が一つになって怪しい光芒を放っている。狂気と美的創造力の危いバランスで保たれているだけに、彼の鋭く真剣な作画態度は、命を賭けてなお悔いない覚悟をもった者のみが示す、純粋さと激しさが発散する緊張感が漂う。
 《コルドヌリ》に見入っていると、佐伯の他の作品にみられる作品が放つ独特の緊張感がない。というよりも、逆に肩の力が抜け、自然体で鑑賞に浸れる。すると形容しがたい不思議な現象を感じた。パリの裏街の古い商店街にある靴屋に見入っていたとき、微かなピアノの音を聴いて、不思議な戦慄を覚えた。絵を眺めていて、或る音楽を、と言うよりも一種の聴覚的幻覚のなかに感じた。その音が現実に鳴っているわけではない。パリの構築的空間のなかで、建物の正面から立体を把握しようとした色数の少ない画面が、そういう幻覚を生みだしたのである。絵肌そのもののもつ、堅固で透明な姿がキース・ジャレットと応えあったのである。心の動きそのものに、極めて直接的なかたちで触れたのである。己の最奥のものを色と形で表現するしかなかった佐伯と、その作品が放つ波長と鑑賞者のもっている波長が一致した時に発生した印象が感動となり、己れの最奥のものを音でで表現するしかなかったキース・ジヤレットが、鑑賞者の印象のなかで融合したのである。視覚と聴覚という二つの感覚が同時に出現する現象を心理的には共感覚というが、ここではそのような知覚構造を論じる必要性もないし、それを他人に証明できるような手立てもない。このような理解しがたい現象を感じたことも含め、非常に印象深い作品となったことが研究対象とした理由である。
 絵画鑑賞における印象の発生は、作品に表現された色彩から受けるものと考えられる。だが、印象の受け方というのは、同じ作品から同一の印象を受けるとは限らない。性差によっても違うだろうし、年齢による違いもあるだろう。色彩における性差の問題は、絵に表現された事柄を通じて露見する。子供の間にはおとこ色おんな色という区別がある。子供達はその色の区別に大いにこだわる。その区別は大人になっても、寒色選択か暖色選択かという形になって受け継がれていく。また、色は視覚言語ともいわれるから、言葉と同じような性格をもち、一定的な意味を示すと考えてもよいように思うかもしれない。交通信号のように一義的な約束で使われる色もあるから、ある面での情報的な働きとしては確かにそのような理解の仕方も正しいのであろう。然し、言葉が意味が固定されている単語の組み合わせで成り立つのとは違って、色彩の意味は、言葉的な、単意的な情報性のほかに、感覚的な、感情的な、そして習俗観念的などのような区別において、個人的な意味として左右されるものである。そこへさらに、目立つ目立たないという視覚作用からの働きかけが加わってくる。しかも、最終段階の意味決定は、それらの単純な総合作用から結論というものでもない。
 《コルドヌリ》からうける印象は、ヨーロッパの色彩表現によって描かれた彩色美の特徴にあるように思われる。それは日本人の目にあまり馴染みのなかった透明性を感じさせる色彩にある。佐伯が作品で表現した色彩は、パリでの生活を通じて、体得した東洋人の印象であった。そこで、問題設定を佐伯作品の色彩の重要性に焦点を絞って論じてみる。