藤田嗣治の戦争記録画に関する考察
 ―《サイパン玉砕図》に見る表現の異質性について―
 2003年度卒業論文要約
足立 弘 
(30051043)

 第2次大戦中に制作された戦争記録画は、主に国威、戦意高揚を目的に軍を発注者とし、軍の論理を支柱にした絵画である。私が初めて見た藤田嗣治の戦争記録画は《サイパン玉砕図》である。サイパンで在留日本人たちが玉砕する姿を描いた作品である。この作品の前に佇み、不思議に思ったのは画面から受ける表現の異質性である。同じ戦争記録画でも他の画家たちの表現とは明らかに違う。そこで、この作品の表現の異質性を検証し、それは何によるものなのかを明らかにしたい。
第1章 《サイパン玉砕図》と他の戦争記録画
(1)《サイパン玉砕図》の表現と構図
 画面は、暗いアーバン系の一色画的色調であるが、細部まで入念に描き込まれたマチエールの堅固さと不自然さのない表情や人体デッサンによって画家の想像力が死と向い合う人々の姿に迫り迫真の画面を構成している。三角形構図を成す群像表現は、ドラクロアの《キオス島の虐殺》などを参考にしたものと思われるが、それがたとえ過去に向かっていたとしても、大胆な空間構成と劇的表現によって画面には藤田の主体性が見えてくる。
(2)他の戦争記録画
 他の戦争記録画が、画家個人の解釈は極力抑えられ、用意された「公認のストーリー」に準拠した、つまりニュース写真のように忠実な写実であるのに対し、藤田のそれは画家の眼を通した写実であり、両者に大きな隔たりがある。
第2章 エコール・ド・パリの藤田と作品
 異質性を探る鍵は、戦争記録画以前の藤田の作品にあると考え、エコール・ド・パリ時代から戦争画にいたる藤田と彼の作品について検証する。画風こそ異なるものの、そこに流れる表現の共通性を考察する。
(1)《寝室の裸婦キキ》
 「グラン・フォン・ブラン」と絶賛された絵画技法が藤田独特の表現方法となり、エコール・ド・パリ時代における彼の芸術が成立していった。この技法の結実した作品である《裸婦》は表現主義以後の「新しいリアリズム」と評価された。
(2)《猫(闘争)》
 彼が好んでモチーフにした「猫」には、時代によって変化する藤田の精神の有り様が投影されているといわれる。
(3)壁画
 1930年代の「壁画」は彼独自のスタイルを一変させる。社会性と構成力を要する群像表現の追及という点で戦争画への延長線上にあったと思われる。
第3章 《サイパン玉砕図》の主題
(1) 題材
 戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」と諭す通り、死を選んだ、婦女子を中心とする在留邦人の姿を新聞記事に取材して描いた。
(2) 主題の二面性
 戦意高揚を目的にした「死の美化」である、いや「戦争の悲惨」であるという二つの相対立する見方がある。
(3) 異質性
 主題とは、作者が何かの現象について何かを語ろうとするその発言の伝声管になるものである。描かれる現象の奥にあるその本質やそれを支配しているもの、また作者の心の中に起る感情や判断、これら不可視的なものが描写される可視対象を通じ画面に表現されるのである。従って、一つの絵に「相反する二つの主題」はあり得ない。この作品に二面性存在の余地を与えているもの、それは偏に作品のもつ異質性であり、藤田のリアリズムと深い関わりがあると考えられる。
第4章 《サイパン玉砕図》の表現
(1)戦争記録画のリアリズム
 要求されたのは、穏健で通俗的なリアリズムであって、実情をそのまま表すことではなかったし、まして個人的評価を下すことではなかった。
(2)《サイパン玉砕図》のリアリズム
 《サイパン玉砕図》で藤田が語ろうとしたのは、「死の美化」でもなく、「戦争の悲惨」でもない、在留邦人の「殉死」の事実そのものである。「美化」された物語の一元的読み取りに裏打ちされた《玉砕図》の礼拝価値は、「藤田のリアリズム」によってさらに高められたといえる。その意味で見る人や見方によって戦意高揚に機能したと思われる。しかし、事実を描こうとする作者の現実を見る眼があらわになる為、「藤田のリアリズム」は自然に現実批判的な側面をももつことになる。「自主玉砕」という行為の奥にかくれているその本質や元凶、それに対する藤田の感情や判断、すべて目に見えないものであるが、画面に描写された群像を通じて感じ取ることができるのである。
結び
 エコール・ド・パリ時代から「藤田のリアリズム」は彼の本質に根ざすものと言われる通り、《サイパン玉砕図》の画面に表れている異質性は、戦争画に要求されたリアリズムをほとんど本能的に拒絶した「藤田のリアリズム」に他ならない。戦争は絵に描かれようと描かれまいと絵の外に厳然と存在した事実である。今後さまざまな視点から研究を要する課題と思われる。