亜欧堂田善「江戸名所銅版画見本帖25枚綴」にみる江戸風俗趣味
大内順子 
(30051075)

 奥州須賀川(現在の福島県須賀川)に生まれ、染物業を生業とする傍ら絵を描くことを好み、地方の絵師として日々暮らしていた永田善吉(1748〜1822)は、47歳の時に幕府の老中職を辞した白河藩主・松平定信(1758〜1829)との出会いによって、一大転機を迎えることとなる。
 それは寛政6年(1794年)9月、松平定信が領内巡視のため須賀川へ立ち寄った時のことであった。善吉の描いた「江戸芝愛宕図」屏風の見事な出来ばえに感心し、早速、当時、御用絵師を努めていた谷文晁(1763〜1840)に弟子入りさせたことである。そして文晁の教えは、なによりも絵を描くことが好きだった善吉にとって、西洋画に対する関心や興味を大きく膨らませることとなった。
 また、この頃に松平定信より「亜欧堂田善」という号を与えられ、以後、亜欧堂田善・亜欧陳人・星山堂などと号した。「亜」は、亜細亜、「欧」は欧州という意味である。
 「定信との出会い」という非常に幸運な出来事が契機となり、田善の運命は大きな変化をとげる。寛政8年(1796)、田善が49歳の時に、定信の御用絵師となり白河の会津町に移り住み、2年後の寛政10年(1798)、田善50歳の時には、江戸の白河藩邸へ出府することとなる。
 江戸へ出た田善に、定信は「銅版世界地図」を見せ、その技術を修得するように命じたという。しかし、寛政4年(1793)には、すでに日本で最初の銅版画世界地図「與地全図」が司馬江漢によって制作されていた。が、定信は「正確さに欠ける」という理由でより正確なもの、より実用的なものを田善に求めたものと考えられる。
 定信の庇護のもと、江戸へ出て4年後、田善は司馬江漢に西洋画法や銅版画の技法を学ぶことになるが、「性遅重々しく肆業運用にうとし」として破門させられる。そのため田善は、主君である松平定信の近くにいた蘭学者・森島中良(1754〜1808)や大槻玄沢(1757〜1827)らの助言と協力、それに加え自分自身の研究と努力で銅版画の技法を修得することとなる。
 その第一歩として、田善は輸入銅版画の模写や模刻から始め、西洋銅版画を模刻しながらも、たんに模刻だけに留まらす背景や人物、あるいは構図等にも自分なりの創意や工夫を加えて作品を仕上げ、銅版画の技法を修得するとともに、やがて江戸の風景や風俗へも眼をむけるようになり、数多くの作品を制作することとなる。
 そして、修得した技法を駆使して田善は江戸の町の様子や風景、さまざまな職業の人々や建築物、風俗などを織り込んだ「江戸名所風景銅版画」の制作に取りかかる事になる。
 しかし、それ以前の天明3年(1783)には、すでに江漢が腐食液を用いた精密な日本最初の銅版画「三囲景図」(神戸市立博物館)を制作しているが、この作品は覗き眼鏡で見るための眼鏡絵用であった。
 田善の「江戸名所銅版画見本帖25枚綴」の中の「三囲図」(須賀川市立博物館)とならべてみると、違いがよく分かる。これら25枚の作品にいきずく江戸風俗趣味を探ってみたい。
 25枚の作品のうち屋内を描写したものは、3点のみである。「新吉原夜俄之図」の芝居小屋の賑わい、「自大槌屋後楼臨不忍地図」にみられる画面上の緊張感、「品川月夜図」の銅版画特有の白黒の世界・明暗の描写技法による、情趣溢れる画面。しかし、そこに表された人物表現には、不思議な違和感をおぼえるのである。
 屋外の作品においても「吉原大門」にみる突き刺すような太陽の光、画面全体を埋めつくした人々を描いた「日本橋魚廓図」、「二州橋夏夜図」の船の上から打ち上げられた花火、「霊岸島湊之図」に描かれた、頑丈で船とその下に佇む人との対比など、これら25枚の作品からは江戸の町に住む人々の活気に満ち溢れた生活の営みをかいま見ることができ、その一点、一点に凝縮された小さな世界の中で交わされる会話や巷に溢れる生活音・生活臭までもが、画面の中から滲みでてくるのである。
 かつて、田善を破門した江漢が後に「善吉はまことに日本に生まれし和蘭人なり」と称誉したとあるように、亜欧堂田善は、「秋田蘭画」の佐竹曙山(1748〜1785)や小田野直武(1747〜1818)、司馬江漢らと共に、江戸時代を代表する洋風画家であり、銅版画家である。
 しかし、これらの「江戸名所銅版画」は、あくまでも「銅版世界地図」を制作するという最終目的を達するための、訓練・練習のための作品であった。これら数多くの作品を土台として田善は、文化7年(1810)銅版画世界地図「新訂萬國全圖」を完成させ、定信の期待に見事に答えることとなる。