昨年の暮れから2003年1月にかけて京都国立博物館で『大レンブランド』展が開かれていた。スクーリングで京都にいった時に立ち寄ったのだが、博物館の前で入場者を整理するハンドマイクの声、入り口周辺にならぶテントなど、その光景は『写真図説明治百年の歴史』(講談社1968)に載っていた東京博覧会の白黒の写真を思い出させた。 今日、私達は特に疑問を持つことなく美術館に美術作品を見に行く。しかし、いつ頃から始まったのだろうか。趣味を問われて絵画鑑賞という言葉を使うことがある。私も含めて、ことさら絵を描くわけでもない普通の人々にとって美術作品との関わりはどういう形であるのだろうか。美術作品を鑑賞する人=観客は美術という世界のどの位置にいるのだろうか。 「〈聴衆〉、〈観客〉、そして〈読者〉は、実は歴史的に見て、きわめて分からない部分、明らかになっていない部分が多い」(和田敦彦『メディアと読書の現在』2002信州大学HP)といわれる。「作家」については当然さまざまな記述があるにもかかわらず、読者や聴衆の歴史はほとんど記されてもいない。それはなぜだろう。 明治40年、明治国家によるはじめての美術展が開かれた。文展とは文部省展覧会の略で、文展は初め、フランスのサロンをモデルとしていた。当初、美術という文化復興政策として官主導で企図された。第一回は日本画(99点)、西洋画(66点)、彫刻(15点)という3部門に分けられ、一ヶ月に43,741名の人が訪れた。今日のようにメディアが発達していなかった当時としては相当に多い数である。現在、東京国立博物館の一ヶ月あたりの平均入場者数は9万人程度(シンワアート・アカデミーHP)。文展が、一般市民が美術品に触れる機会となったことが伺われる。 この時期は同時に、夏目漱石が東大の職をやめ、朝日新聞専属の作家として小説を書き始めた時期でもある。「三四郎」は当時の美術展へ足を運ぶ階層の人々の習俗をたくみに描きこんで、新鮮な印象を読者に与えた。朝日新聞の購読者がこの時期拡大していった背景に、読者が新聞小説にも時代の雰囲気を求めていたからといえないだろうか。 日清、日露戦争と対外との戦争に勝利し(からくも)経済破綻を招きながら、対外的には、近代国家の様相を示すことになった明治後期は、人々の生活の姿が大きく変容していく時期でもあったといえる。都市に暮らす課長としての給与所得者と配偶者とその子供という「核家族」層が整備された交通網にそって郊外へ拡大していく時期でもあった。 これらの都市生活者が「新中間層」と定義されて階層を形成するのは、大正12年「関東大震災」後、東京がその様相を大きく変えた後、とされている。しかし、日本の近代化の課程において1900年を中心にその前後10年間はのちの大正ロマン、大正デモクラシーと呼ばれ大正文化の前段階と位置付けられるのではないかと考える。 東京を中心にこの間の社会的背景を考察し、まだ少数であった、経済的にはむしろ富裕な階級に属する「新中間層」の美術鑑賞の行為をいくつかの記述から見ていく。
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