レイブという野外で行う音楽パーティーがある。会場内はサイケデリックな装飾が配され、テクノ・ミュージックが鳴り続く。踊るもの、疲れ果てて転がっているもの、ドラックでドリップしているもの、瞑想しているもの、フリーマーケットをしているもの、大道芸をしているもの様々である。共通の目的は踊り狂うことでトランス(恍惚)状態になり快感を得ようとする。そのためアルコールはもちろんドラッグも少なからず横行しているようである。会場は知らないもの同士挨拶したり、食べ物を交換したりと日本の日常生活では考えられない光景がみられる。踊るのであれば、クラブでも可能である。街にはテクノ・ミュージックをかけるクラブが点在する。何がレイブに駆り立てるのか。それが本論文を執筆する動機となった。 第1章「レイブの概要」レイブはイギリスで発祥した。クラブカルチャーが隆盛した時期に、パーティーは室内から野外へと広がる。レイブの始まりだ。レイブパーティーは短期間のうちにドイツやオランダ、ベルギー、インドのゴア、地中海のイビサ、タイのコ・パンガン、オーストラリアのバイロンベイ、ハンブルグ、東京、ロンドンなどに広がり現在に至っている。例えば、世界最大のレイブ、ベルリンの「ラブ・パレード」は、ベルリンの壁崩壊後から始まり、当初参加者は数百人程度だったが、99年には100万人とも200万人とも言われる巨大イベントに発展している。イギリスでは警察の取り締まりの対象となり、94年には「クリミナル・ジャスティス・アクト」という反レイブ法が制定され、警察の許可のない野外での大音量と反復ビート音楽が禁止された。日本のレイブシーンはイギリスやドイツのような規模ではないが、アンダーグラウンドな層でここ数年確実に盛り上がりを見せている。 第2章ではフィールドワークを通じてレイバー(レイブリピーター)をトランスさせる、会場内の演出を検証する。レイブ参加者を忘我させ、ダンスに没頭させるのは、会場内の視覚的演出、サイケデリックな装飾や映像、聴覚を刺激するトランス・ミュージックなどによってであった。 第3章「レイブ・カルチャーとヒッピー・カルチャーの比較」レイブはかつてのヒッピー・カルチャーとの共通点がある。サイケデリックな演出や音楽で幻想体験を目指す点。東洋崇拝、アルコールやドラッグ等で享楽的な世界を希求すること。ヨーガや瞑想、自然との共生や自己探求を行おうとする点である。又自然とテクノロジーの両方が混在する点でも共通点が見られる。両者の相違点は、ヒッピーは自分たちの思想を社会へ広げ変革を望んだのに対し、レイバーは社会に対しての大義名分を持たない点だ。又一人のアーティストに皆で熱狂したヒッピーとは異なり、レイバーは個々人でダンスに没頭する。そしてその神秘的体験を日常に引きずり私生活に持ち込もうとはしない。レイブ空間を日常と断絶させ、非日常として割り切る。そこがヒッピー・カルチャーとの端的な違いであると言える。 第4章「レイブと現代における他音楽カルチャー」テクノ・ミュージックで踊れる場所はレイブ以外にもある。クラブや室内の音楽イベントである。レイブと他の音楽カルチャーの端的な違いは、参加の際に主体性や気合が必須であることだ。 最終章「蘇生の場」レイブ好きの中にはクラブやライブに好んで出かけるものはいるであろう。だがレイバーにとってレイブは他音楽カルチャーのような刹那的な単なる気晴らしというよりは、ある種の儀式として機能をはたしているのではないだろうか。レイブ体験は宗教儀礼や儀式などの「再生」に近いものをもたらしているように思われるからだ。確かに修験道や禅のような過酷な振る舞いとは一線をかすべきではある。だが現代の若者にとってレイブは浅薄ながらも「再生」感を味わえる「蘇生」の代替手段となっているのではないだろうか。合理化、テクノロジーの発達に伴い、神を呼ぶという旧来の儀式も消滅しつつある。現代社会に逆行した祭祀・宗教的儀式・儀礼は継承者を失っている。同時に我々は心身に「蘇生」をもたらすような狂いの機会を失い、狂乱に飢えているといえないだろうか。神を呼ぶ祭祀や儀式が消滅し、バーチャル体験で感覚を変調することが出来る時代になっても、脳ではなく、この肉体をふるわし、心身ともに再生出来る場所を求め続けるのではないだろうか。神憑りでトランスするのではなく、テクノによってトランスするレイバー。神なき時代の祭の形態を思わせる。「自然・人間・機械の奇妙な融合」を成すレイブ空間。宗教的儀式や儀礼に比べ、生ぬるい感は拭えないが、レイブは、インスタントながらも現代においては貴重な「蘇生の場」となっているのではないだろうか。
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