中国の代表的な輸出品のひとつである陶磁器。数ある陶磁器産地の中で、江西省景徳鎮は現代に至るまで世界中にその名を知られ、さまざまな名品を生み出してきた。清代、特に康煕(第4代)・雍正(第5代)・乾隆(第6代)の三大皇帝の統治時代には技術が飛躍的に進歩したため、この時期の作品は中国陶磁器の頂点を極めたとされる。実際、中国陶磁器関連の文献に最も多く作例が登場し、評論家が筆を極めて絶賛するのもこの三大皇帝の時代の焼造品である。 しかしながら、第7代・嘉慶帝から清朝最後の皇帝、第12代・専統帝まで、100年余りの期間の伝世品が文献で紹介されている例はごく少ない。ほとんどの文献が第6代・乾隆帝時代の作品までを紹介するのにとどまり、以後は記述がないか、または「見るべきものがない」として具体的な作例は挙げられていない。第11代・光緒帝の時期にいくつかの名品が作られたと指摘する文献は1、2あったが作例は少なかった。 歴代皇帝が積極的に焼造にかかわったことで、景徳鎮の官窯が技術的にも芸術的にも大きく進化した清代にあって、「頂点を極めた」三大皇帝ののち、嘉慶期から終焉までのわずか100年ほどの間に「見るべきものがない」にまで劇的に作品の評価が変わったのはなぜなのか。『陶をもって政を見る』ことにより、王朝の衰微を景徳鎮に重ね合わせて、単純に衰退したととらえているのではないか。また、本当に「見るべきもの」はないのか。そうであるならば光緒期の「名品」といわれる作品はどう位置づければよいのか。 以上の疑問を核に、本論文では光緒期の景徳鎮官窯焼造品の作例を挙げ、その特徴と位置づけについて考察する。技術性・芸術性を明確にするため、図案、色彩など類似のものが多い雍正期の作品を主な比較の対象とした(一部乾隆期作品)。清という時代の特殊性(異民族による征服王朝、最盛期と衰退期の落差、西欧近代化という時代背景など)が陶磁器の焼造状況に大きく影響していると考えられるため、光緒期の陶磁器について考察する前に清王朝の性質、清代の陶磁器の変遷にふれ、全体を3つの章に分ける構成としている。また先行研究の一部は本論文の「序」で紹介した。 第一章「清とはどんな時代だったか」 1616年のヌルハチ(太祖)によるアイシン国建国から1912年の中華民国建国による滅亡までの約300年間、中国を支配した王朝・清。女真族という異民族でありながら政治的には前王朝・明の諸制度を踏襲したほか、文化を保護、発展させるという方策で漢民族を支配した。18世紀中頃にはその版図を最大限に拡大して国力を誇り、さまざまな文化が花開いたが同世紀末以降は政情悪化と社会不安によって急速に弱体化し、アジアへの覇権拡大をもくろむ西欧列強の格好の標的となった。近代化の波に乗り遅れたのみならず翻弄された清は、内憂外患の状態から脱することなく滅亡し、中国最後の王朝となった。この章では王朝の誕生から滅亡までを概略している。 第二章「中国陶磁史の頂点・清朝の陶磁器」 清代には、明代末に焼造を停止していた景徳鎮官窯が再開され、「官塔民焼制」が「尽塔民焼制」に改められたことにより工匠の制作意欲が大きく向上した。また各皇帝が焼造に積極的にかかわり、特に三大皇帝の時期には工匠を指導する督造官を派遣して監督に当たらせ、質の向上に努めた。この章では清代の陶磁器焼造への取り組みについて説明し、中国陶磁器の頂点を極めたといわれる康煕・雍正・乾隆の各時期の作品の特徴を述べる。 第三章「光緒時代の陶磁器」 光緒期の作品の特徴を『粉彩百蝶文長頸瓶』など作例7点を挙げて説明する(図版参照)。作例が多く、その特徴について先行論文・文献で説明が豊富な雍正期の作品(一部乾隆期)を比較の対象とすることにより、最盛期と言われる時代の作品と光緒期の作品は具体的にどこがどのように異なるのかについて考察し、「嘉慶期以降は見るべきものがない」とされる根拠を推察した上で、その評価が正しいものであるかを考える。 さらに清末の混乱期にありながら焼造を続けた景徳鎮官窯の状況を、光緒期の政治的・経済的背景から推察し、遺品は少ないながらも官窯の名に恥じない作品が焼成されていたことを指摘する。 嘉慶期以降、焼造命令が出されていなかった時期は別として、当然ながら景徳鎮官窯では一定の技術水準で磁器が作られていた。皇帝の命によって官窯で制作された作品であるにもかかわらず、康煕・雍正・乾隆期の官窯磁器が最高峰であるという通説にとらわれて減点法で見てはいないだろうか。今後清朝末期の陶磁器の作例が発見され、単に前代の比較にとどまらず、一時代の作品として正当に分析・評価されることを期待して本論文の結論とする。
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