痕跡のリアリティ
 ―イヴ・クライン「人体測定」シリーズを巡って―
 2003年度卒業論文要約
佐藤亜矢 
(30051403)

はじめに
 本稿では、イヴ・クラインの「人体測定」シリーズの痕跡としての性質に注目し、制作行為と作品の両面から絵画のリアリティについて検討する。「人体測定」は、クラインの芸術活動全体を貫く特徴である行為と作品の等価性を際立たせるものであると同時に、絵画を成立させている基盤を問う契機となりうる作品である。
第1章 行為と残余物
 「人体測定」の公開制作の様子を概観した後、このパフォーマンスの特異性を他の作家の作品や活動との比較を通して考察する。特徴はいくつか挙げられるが、作家の制作行為への不参加とモデルの道具としての使用が人体を非個性的な存在として扱っている点で特に注目される。この時作られた作品が特定できないことから、制作の場においては作品の完成が目指されておらず、行為そのものが何よりも重視されていたことが指摘できる。このことは、「私の絵画は私の芸術の灰である」というクラインの発言とも合致する。また、公開制作の事後的な目的は、観客以外の人々にも作品の生成過程を広く知らせることにあったと考えられる。
第2章 ポジティヴ/ネガティヴ
 「人体測定」の具体的な作例をいくつか挙げ、それらを手法の違いからポジティヴ・プリントとネガティヴ・プリントに分けて検討する。ポジティヴ・プリントには、頭部を除外した作品や複数の人体が組み合わされて1つの形が作られる作品があり、個別性を超えた非人称の「生」のしるしを留めるというクラインの理念をよく反映している。一方、スプレーで人体をかたどるというネガティヴ・プリントの手法は輪郭線を引くことに通じており、線を否定したクラインの理念に反している。ネガティヴ・プリントには、腕や脚さらには指先の形までもが鮮明に現れている作例があり、ポジティヴ・プリントとは対照的に人体の個別性が意識される。また、ネガティヴ・プリントは作家の手の介在をより必要とすることから、作家が直接制作に関与しないとするクラインの発言とも矛盾している。しかしながら、ネガティヴ・プリントは「人体測定」着想に深く関わっている。クラインは広島で原爆の閃光によって石に刻み込まれた人間の影を見て衝撃を受け、それがインスピレーション源の1つであると言われているからだ。輪郭線は人間を身体という枠組みの中に閉じ込めてしまうが、身体を通して世界を知る人間にとって身体ほどリアルに感じられるものはない。クラインは自身にとって禁忌である線を用いても、圧倒的なリアリティを獲得したかったのだと思われる。
第3章 イコンとインデックスの間に
 人体と画面との接触というメカニズムに注目すると、「人体測定」は写真的な作品として捉えることができる。パースの記号論によれば、写真は、絵画と同様に対象との類似性に基づくイコンとしての性質を有しながらも、対象との物理的結合に基づくインデックスともみなされる。殊に、絵画と対比した場合、写真のインデックスとしての性質が浮き彫りになる。「人体測定」と写真との類似性は、作家のコントロールが完全に及ぶことがなく、現実に存在する事物の一状態を切り取ったものである点に見出される。しかし一方で、制作過程における画面操作が可能であり、同一物の複製が不可能である「人体測定」は当然ながら絵画的でもある。写真とも絵画とも異なる特質としては、制作時に画面と対象との距離が消失する点が挙げられる。このことが「人体測定」が写真とは異なり、対象そのものの痕跡であることを示しているのだが、言うまでもなく、「人体測定」は絵画作品としても成立している。絵画においてイコンとインデックスの関係が錯綜したものであることは、絵画は人間の影の輪郭線をなぞることから始まったというプリニウスの「絵画の起源」伝説からも窺える。絵画には通常考えられているような事物の表象としての極がある一方で、事物の存在を留める痕跡としての極がある。痕跡でありながら再現的でもある「人体測定」は、イコンとインデックスが交錯する地点に位置する作品であるとみなすことができる。
おわりに
 「人体測定」の検討を通じて、痕跡がその直接性ゆえに見る者に強力に作用することが示された。そして、痕跡が再現性をも備える時、絵画のリアリティを強化することが示唆された。それは、「見ること」と「描くこと」の間にあるものに対する問いへと通じている。