スイスのバーゼル美術館に100点ほどのクレーの作品があるが、その中で人気の高い作品の一つが《セネキオ(1922,181)》である。CATALOGUE RAISONNE PAUL KLEE, Volume 3, The Bauhaus in Weimar(1919-1922), Paul Klee Foundation, London, Thames & Hudson, 1999 を見ると、副題としてBaldgreiss の名があり、厚板紙にガーゼを貼り付け白亜で下塗りをしたものに油彩を施したものとある。《セネキオ》は幾何学図形に「分節」された部分とそれを総合した全体の相貌とが織り成す多様な要素を画面に閉じ込めたものである。一体この画面に表されたものは何だろうか。 日本での紹介は《サワギク》または《野菊》が多いが、その絵の解釈は(1)あどけなく愛らしい少女、(2)幸福感を作者が味わっていること、(3)画家として自信を持って意欲的なこと、(4)スフィンクスめいた表情、自己アイロニー、一筋縄ではない皮肉を含む感情、謎めいた人物、などで表現される不可思議さ、(5)すぐに老人になる画家自身、と多様性を持つ。 パウル・クレー(1879-1940)は、パブロ・ピカソ(1881-1973)とならんで、新芸術の開拓者の一人であった。しかし、ピカソが早くからその技量と芸術家としての自意識を持っていたのと比べ、画家としての修行でも油彩画を苦手とし、伝統的な絵画に背を向け、グラフィックアーティストとしての出発であった。亜鉛板エッチングの連作にクレー芸術の特色がよく現れているように思われる。《喜劇役者(1903,3)》、や《ペルセウス、機知が苦渋に勝った(1904,12)》、《威嚇的な顔(1905,37)》などの主題として取り上げられているものに、相反するもの、不可解なものが付随して、作品を謎めいたものにしている。たとえば、《喜劇役者》は、仮面を「芸術」として、役者を「人間」として描いているとクレーが言っているように、相貌を中心に作品に二つの相反するような意味を持たせようとする意図が見られる。 クレーが世界の美術の潮流にふれるのは遅く、カンディンスキーやフランツ・マルクが主催する「青騎士」や、ミュンヘンなどで始まった「分離派」などへの参加を通じてであるが、クレー自身が色彩に開眼するのは1914年のチュニジア旅行による。その後ヨーロッパに戦争が起こりクレーも従軍するようになるが、戦争中のクレーの絵の売上を見ると、小役人並みの収入であった1914年を100とすると、1915年は37と激減し1916年は132と回復し、1917年は390、1918年は263、1919年は476である。1915年と1918年に不振の年があるが1915年は抽象的な作品に傾斜したからであった。その試練から得た売上促進手法が、一つは題名を文学的な意味合いをもたせることであり、また批評家の好評を得た題材である鳥のテーマや、星や月の記号が多いものを制作することであった。1919年には包括販売契約を結ぶことで安定収入を得られる道を開いた。しかし、この裏には現代美術画商と契約するか、今まで面倒を見てくれた従来の美術を扱ってきた保守的な画商と結ぶか、葛藤があったはずだ。ここにも相反するものが同時に存在するアンビバレンツな気持ちがみてとれる。 マッケやマルクなど親友が戦死した裏で、従軍したクレーは父親の奔走により前線送りをまぬがれ兵舎で絵を描く時間を確保できる。また、ミュンヘンに革命政府樹立時に美術評議会のメンバーとなり、美術アカデミーの改革にも加担する。しかし、統一ドイツ共和国軍に一掃され、加担した急進の芸術家が多く逮捕されたにもかかわらず、クレーはスイスに逃げ延びるなど、この局面でも改変される予定であった美術学校の教授職への思いと、官憲の手に落ちなかった安堵感とが対極にあって、クレーの心を悩ませたことであろう。 1920年にバウハウスの教授職を手にするについて、自分より9歳若いシュレンマーとヨハネス・イッテンに恩義を感じているはずだ。しかし、時すでに表現主義の時代ではなく構成主義の分子が勢力を伸ばしていた。イッテンがこの機関に居りづらくなるが手の施せるわけもなく、またシュレンマーも構成主義に傾き舞台芸術に自分の道を開いていく。やっと得たマルクが持たなかった自分を世間に認めさせる道。1921年11月から1922年12月まで、初めての通年講座を担当することになったクレーが、自己の芸術理論に掛けた意欲は並大抵のものではなかった。その教材ともいえるものとして具体化した作品が《セネキオ》であり、副題をbaldgreiss(直に老人)としたのだ。相反する心の同時存在を表現したもの、アンビバレンツを相貌化したものが《セネキオ》なのだ。
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