序文 『一遍聖絵』は、時衆の開祖一遍の生涯と宗教をあらわした祖師伝として知られているが、一個の絵画作品としても高い評価を得ている。起草者は聖戒、絵師は円伊である。 院政から鎌倉にかけてみられた社会・文化の価値変換は中世美術の発展にも影響を及ぼした。本作品も伝統的なやまと絵に南宋の画風を融合させることによって格調高い場面作成に成功している。宋画の影響は山水の構図の立体表現の他に、形態、樹木の輪郭、彩色、筆致の勢い、画材などに見ることができる。 一遍の宗教的根本思想は「十一不二の頌」、「六十万人の頌」、「六字無生の頌」として示され、「踊り念仏」や「遊行」の形で実証された。 本論文の目的は、一遍の宗教思想がどのように可視的に表現されているのかを検証することである。方法としては、環境表現、時間表現(方向性)について同時代の高僧伝や絵巻と比較する比較検討法を用いた。 第一章 環境表現 十三世紀の絵画を環境表現の側面から見ると、本作品は「叙事的部分をおさえた環境表現の多い作品」の流れに入る。この特徴を可視的に証明することを試みた。 まず本作品の中で一番目と二番目に大きい一遍像を選び出し、一枚の絵における百分率値を算出した。同時代の十例の祖師伝と比較検討した結果、『一遍聖絵』における主人公の占める割合は他の祖師伝に比べて最も小さいことが証明された。 次に「人小景大」の傾向に関する四つの解釈を紹介した。すなわち、景物画としての特徴を重んずるとするもの、一遍の世界観が表現されているとみるもの、「信仰の場」としてとらえようとするもの、製作者の紀行的体験の反映の結果であるとするものである。筆者は「世界観の表現」、とりわけ「救いの眼差しの及んでいる場」としてのとらえ方を理解して指示する。 『一遍聖絵』に描かれた環境表現は「十一不二」の思想を表し、小さく描かれた主人公の姿は一遍の「信仰のとらえ方」、「世界観」をあらわしているものと考える。 第二章 『一遍聖絵』における異時同図法の動線の流れは逆勝手を示している。@巻一第一段、「華台上人をたずねる一遍」については「異時同図法は成り立たない」という金井(2000)の説があり、筆者も納得できるので本論では省く。A巻三第一段 「熊野権現の示現」、B巻四第一段 「筑前国武士の館」である。これに対して、比較した八例の絵巻は全て順勝手であり、本作品とは反対方向を示していることが証明された。 「熊野権現の示現」は一遍の思想が形成されていく中で重要な転機を示す場面であることが聖の言葉で示されている。@とAは示現によって告げられた「十一不二」の思想の神髄、すなわち「一切衆生の往生は南無阿弥陀仏也」の意をあらわすものと解釈される。このことから筆者は『一遍聖絵』における異時同図法の方向性は教祖の思想の重要な部分の強調であると考えている。 「異時同図法」にとらわれずに本作品十二巻を通してみると、逆進行はC巻五第一、D巻五第五、E巻十第三に見られる。金井の「俗と聖では進む方向が逆である」という宗教画の読み解き方を参考にして逆進行場面を解釈した。Bは踊り念仏による他者への帰一、Cは権力への対抗、Dは臨終を迎える直前の一遍を表す。宗教画ゆえの特徴といえよう。 以上のことから『一遍聖絵』における逆勝手の方向性は、念仏の神髄に向けての動きを表現し、一遍の思想の根幹の部分を強調するものであると考えられる。 結論 一遍の生きた時代には身分を問わず人々が恐怖心や寂寥感のなかで宗教的安心を強く求めていた。一遍も武士の家柄という境遇に生まれて、死、喪失、権力闘争、愛欲の苦しみを身をもって経験した。一遍が市教によって目指したものは自己を含めた人間の「救済」であり「宗教的安心」である。それは「十一不二」思想として示された。本論文では一遍の宗教思想がどのように可視的に表現されているのかを「環境表現」、「時間表現(方向性)」を取り上げて、比較検討法によって検証した。環境表現は「信仰のとらえ方」をあらわし、時間表現(方向性)は宗教絵画として「教祖の思想の重要な部分の強調である」と考えることができる。 一遍の教えの核心は「自己を超えた大いなるものとの交流」を実感させるもので、今を生きるわれわれにとっても重い課題である。
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