1.はじめに 書家・井上有一(1916〜1985)の書について、彼の「遺偈」を中心にして考察したい。有一は、現代芸術としての書を目指し、数々の作品を制作していたが、79年肝硬変の診断を受け、82年「遺偈」をひそかに書いた。海上雅臣氏の考察を参考にして、有一が実際の死よりも前に遺偈を書いた理由、その書のあり方、成立していった過程について考えたい。「遺偈」を書く前に有一は禅の高僧の遺偈を臨書している。禅僧の遺偈と、有一の臨書の遺偈を比較し、禅僧の遺偈から何を得ようとしたのか、禅僧の遺偈の影響について考えたい。「遺偈」を書いた以後、コンテの書や一字書に取り組んでいるが、彼の作品はどのように変わったのかについて注目し、有一の書について総合的に考察したい。 2.有一の書歴について 若い頃の代表として「自我偈」があり、その後エナメルの非文字の作品を書いた。一切の束縛から解放され、ただ純粋に生きようとして墨人会を結成し、欧米モダン・アート作家との交流から、墨人会は前衛書道の方向に向かった。57年のサンパウロ・ビエンナーレ展にエナメル書に行き詰まっていた有一は、紙と墨で「愚徹」を書いた。今までにない新しい少字数書を創造し、「貧」「狼」「花」など数々の一字書を次々と制作していった。有一は大空襲により仮死した経験を持つが、それを書にした「東京大空襲」「噫横川国民学校」という作品もある。有一は一貫して精神を重んじて制作している。 3.有一が「遺偈」を書いた理由 有一は肝硬変の診断を受け、あと5年ほどの命だろうと考える。死の意識が入り込んだ「刎」や「仏光国師偈」を書き、死に臨んで鮮烈な生の活力をよびさます禅僧の遺偈を臨書をした。死者を身近に引き寄せ、自分自身の死はどうあるべきか模索している日々である。そして、85年の死の2年8ヶ月前であったが、己の死に決心がついた時、「遺偈」を書いた。残された人生を日々絶筆を書く真摯さで過ごしたいとの覚悟を秘めている。入院することが決まった日の仕事場には、白紙の紙が広げてあったという。 4.禅の高僧の遺偈の臨書 有一は「遺偈」を書く前、禅の高僧である円爾弁円、痴兀大恵、寂室元光の遺偈を1ヶ月臨書している。感動を引き起こした高僧の遺偈を自分のものにしようとした臨書は、それぞれ異なるが、書法的に何かを吸収しようとしたのではなく、禅僧の死に直面した時の精神の高さを吸収しようとした。そして禅僧の境地に到りえたと感じたとき、自分の遺偈を一枚だけ書いたのである。 5.有一の「遺偈」について 有一の「遺偈」は円爾弁円の遺偈と似た言葉であるが、「欲知端的」、それは「無法」と締めくくっている。書の真実は、とらわれのない自由な境地であり、型にはまるべきものではなく、作者の精神こそが重要であるということだろう。「遺偈」はどの禅僧の書にも似ていなく、「無法」の書であり、生き生きとした動きをもつ書である。この「遺偈」に今までの有一の書業のすべてが投入され、この後有一は日々絶筆行に入るのである。 6.「遺偈」を書いた後の有一の書 「遺偈」を書いて後の有一は、顔氏家廟碑の臨書を行い、一字書「上」「心」を書き、死ぬ直前、有一の生き方を彷彿とさせるような、宮沢賢治の童話「虔十公園林」「なめとこ山の熊」をコンテで子供の落書きのように書いた。「遺偈」で「無法」を追求した有一は、技術は足りなくても、純真な生な人間そのものの表現である、子供の無法の書を理想とし、愚直に徹して生きた自分の人生をそのまま、拙な書で表現した。 7.まとめ・有一の書のとらえかた 遺偈を書いてから後の有一は、本当に日々絶筆の思いで生きた。遺偈を2年8ヶ月前に書いた人間の覚悟は、真実だった。旧弊な書道界から飛び出し、新しい書を求めて書を革新し、有一の人間を強く感じさせる作品群を残し、人間、精神を重視し、技術、型、束縛などから逃れ自由に表現した。病気が判明すると、禅僧の遺偈から死に臨んでの境地を学び、自らの遺偈を書は「無法」と決意をこめた書で表現し、無法を追求していくと、拙に行き着き、「上」「心」などの宇宙的空間をもった作品を残し、最後にコンテで己の「愚徹」を貫き、書に賭けた人生を訴えた子供のような書を残した。
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