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美術館で描くこと 〜美術教育の場所をめぐって〜
滋岡陽子
((京都造形芸術大学大学院修士課程比較芸術学専攻修了))
近年、美術館、博物館において、ことあるごとにその<教育普及活動>が取り沙汰されるようになっている。1992年頃にブームの火がつき、現在では中弛みしているという批判もあるものの、各地の美術館、博物館では頻繁にギャラリートークやミュージアムオリエンテーリング、ワークショップ等が開かれ、夏休みともなれば地域の子供達を集めて子供向けのイベントを開催する館も少なくはない。まさに百花繚乱といった体である。これは美術館、博物館が自らの教育機関としての立場を自覚するようになったことと、身体障害者や低年齢層といった、これまで美術館、博物館という場所に馴染みの薄かった、あるいは足を運ぶこと自体に何らかの障害があった人々に対して、その門戸を開こうという動きが全国的に広がったためである。
しかし、美術館、博物館が教育活動を請け負うようになった要因がもう一つある。学校が美術教育の場として十分に機能していないという現状である。時間短縮の進む中での<表現>偏重の授業、点数による結果を与えなければならない<評価>のシステム、表向きは鑑賞教育の充実と拡大が叫ばれる一方で、生徒の美術館への引率には消極的な教諭等々・・・このような美術から子供達が自由になれる場所として、美術館、博物館が強い存在感を持つようになったのである。そして各館の取組みの中で著しく増加の傾向にあるのは子供(小・中学生)を対象とした企画の開催であり、本槁では、その中で子供達に絵を描かせているものが少なくないことに注目したい。名古屋市美術館の「夏休み子どもの美術館」、滋賀県立美術館の「びっくりミュージアム」、姫路市立美術館の「チャレンジ美術学級」、世田谷美術館の「ゲンキニエンゲキ」など、毎年開催することによって参加者にリピーターを多く持つ企画や、今年、東京国立博物館において46年ぶりの子供のための展覧会となった「どうして像はつくられたの?」、芦屋市立美術博物館の企画展「親子で楽しむ美術館」等、近年の美術館、博物館は大いに子供達を受け入れる姿勢を取っている訳だが、何故、今美術館で描くのだろうか。各地の美術館、博物館では楽しそうに、あるいは真剣な表情で絵を描く子供達に出会うことが出来た。彼らに別段違和感は無いようであり、「じゃあ、描いてみようか」と言って色鉛筆を渡されると、至って自然に画用紙に向い、ああでもない、こうでもないと言いながら絵を描いている。私はこの方法論や目的とするところに、現在の美術教育に欠けている何かがあるように感じている。ここに幾つかの事例を報告し「美術館で描くこと」の意義を考えてみたい。
(1)「美術品子ども鑑定団」(名古屋市美術館・夏休み子どもの美術館) 美術品子ども鑑定団は、96年7月26・27日の両日、名古屋市美術館の夏休み子どもの美術館の一環として開催されたワークショップである。小学校5年生から中学校3年生までの子ども13名が集まり、まずは子供達が美術品だと思うものを持ち寄り、発表する。続いて芸術家の作り出すものと、芸術家でない人が作りだすものの違いについての講義があり、2つのチームに分かれて現代美術作品やインテリア、民具などの写真カードを“美術品”と“美術品でないもの”に分類するゲームや、古今東西の名画の写真カードを見て美しいと感じるものとそうでないものをディスカッションによって分類するといった“美術品”に対する個人の考え方や感じ方を大切にしながら、自分自身の美術を鑑賞する尺度を持てるようにとの配慮のされた企画である。このワークショップの狙いはディスカッションにあった訳だが、最後にそれまでに見てきた作品や物の写真の中から好きなものを選び、自分の好きな場所に置いた様子を想像して描いている。*1
(2)「チャレンジ美術学級」(姫路市立美術館) チャレンジ美術学級は、幼児(年長)から小学校3年生までを対象に、ギャラリートークとぬり絵教室の二部構成で開催される、姫路市立美術館の夏のイベントである。地元の子供達には勿論、保護者にも非常に好評で、今年も50名の定員に対して80名近い参加希望者が集まり、賑やかに開催された。子供達は学年別に分かれてボランティアスタッフと一緒に展覧会「美術探偵団」の会場でギャラリートークをした後、ぬり絵に取り掛かる。ぬり絵と展覧会との関係は全くなく、担当学芸員の制作によるもので、男の子用の「特急に乗って◯◯へ行きたいな!」、女の子用の「夏休みのお出かけは◯◯が最高よ!」の二種類が用意され、それぞれ◯◯に自分の行きたい場所や風景を当てて描くことを求められるものである。
(3)「美術鑑賞って何だろう」(芦屋市立美術博物館・親子で楽しむ美術館) 芦屋市立美術博物館では、毎年夏休みの時期に「親子で楽しむ美術館」と題する展覧会を開催しており、芦屋市内に通学、もしくは在住する小学生を対象としたギャラリートークを行っている。低学年と高学年の二つのグループに分かれてギャラリートークをした後、各自が見た作品の中で一番気に入ったものを色鉛筆で描き、それを持って帰宅するというものである。
(4)「びっくりミュージアム」(滋賀県立近代美術館) 滋賀県立近代美術館では、夏休みの子ども向けイベント「びっくりミュージアム」の他に、子どものための展覧会「アートベンチャー 冒険美術」に伴うイベント「みんなで冒険美術」など様々な企画を開催しているが、これらに参加した子供達にはプログラム終了時にアンケートの記入をしてもらうというのが常である。このアンケートでは「なにが一番面白かったか」、「次はどんな展覧会が見たいか」といった質問と共に、「今日見た作品の中で一番気に入った、あるいは面白かった作品を教えて下さい」という項目があり、そこに絵を描くスペースが用意されている。
以上、紹介したものは美術館、博物館の試みの内で、私が目にすることが出来た中の一部に過ぎないが、絵を描くことを求められた子供達は、積極的にこれに取組んでおり、出来上がった絵を自慢げに見せてくれた。彼らの描く絵は非常に楽しそうで自信に溢れている。何故か。<好きなもの>を描いているからである。好きなもの、気に入った作品、行きたい場所、理想の部屋等々、自分という存在を中心にして放たれる興味の方向性に忠実に描くから楽しくて、のびのびとしたものになるのだと考えられる。勿論、絵を描くに至るアプローチの方法が、通常と異なっているということも大きな要因の一つである。美術館へ足を運び、学芸員やボランティアの大学生達と作品を見ながらおしゃべりをする。或いは子供同士で、美術についての意見を戦わせたりゲームをしたりと、数時間、時には半日を美術館で過ごした最後に<お気に入りの>絵を描く。このような体験をすることは子供が<描く場所>として最も身近にある学校では難しく、子供達にとって美術館という場所の持つ非日常性が、なんらかの心理的影響を与えているという点も考慮するべきだろう。
美術教育の立場から見ても、美術館、博物館で描くということは有効である。描くことによって鑑賞体験をより鮮明に記憶に残すことができ、又、自らの鑑賞の記録を<感想文>という形で求められることの多い学校とは、明らかに異なった体験を得ることが出来るからである。先に挙げた通り、ここでは鑑賞活動の方法も、絵を描くに至るプロセスも、描くことの意味さえも通常学校で行なわれるものとは異なっているため、子供達は心理的に自由である。結果「これが気に入った」「この作品をこんな風に感じた」といった<我>を強く押しだした絵を描くことになる。描写による我の認識は即ち鑑賞体験の再確認でもあり、二重三重に自己と美術作品との関係を築き上げることが可能となり、ここに<見たことを描くことによって補完する>という新しい鑑賞の方法が確立される。
子供達にとって<描く>とはどのような意味を持つのだろう。「上手くなりたい」と言う子供は多い。向上心は誰にだってあるのだからこれは結構なことだと思う。一方で「僕、下手やから失敗したら嫌やし・・・」と10号のキャンバスを前にして筆を持つことを躊躇ためらう高校生がいる。「お受験」の為の絵画教室で「お父さんの絵を描きましょう」と言われて車の絵を描いた子供は叱られる。先日、新聞に掲載された写生コンクールの審査評には、作品の技術的な事柄を云々する文句がずらりと並んでいた。あらゆる場所で、描かれたものに対する評価の基準が技術的側面にのみ偏っており、描いた本人の存在を等閑なおざりにしている。今、彼らは本当に描きたいものを描いているだろうか。楽しみながら描けているだろうか。描くことが本当に楽しいことでありえる場所は、何処だろう。現在、美術館、博物館は子供達にこのような機会を与えることができる場所となりつつある。しかしそれだけでは不十分であることは言うまでもなく、今後全ての教育機関が背負うべき問題となることは必至である。
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