知の喜び美の楽しみ(三)
米澤有恒 
((よねざわありつね:兵庫教育大学教授))

 兼好法師から話が始まって、前回のソクラテスに続き、もう一人の哲人、否、世界に冠たる奇人「樽のディオゲネス」こと、シノペのディオゲネスのことを語ろう。アリストテレスと同時代人である、この古今の珍物を私は大好きである。話が幾らか贔屓(ひいき)目になるかもしれないが、予めお赦し願いたい。
 樽のディオゲネスのニックネーム通り、彼はアテナイの街には住まず、町外れに捨てられた酒樽に起居したという。謂(い)わば隠棲である。彼は隠者だった筈なのだが、それにしては中国の隠者たち、例えば「竹林の七賢」のように清逸の境涯というより、仲々に修羅の人生だったようにも思える。民族性やお国柄の違いだったろうか。
 ディオゲネスは決して「世捨て人」ではなく、世の中を斜めに見るシニシストだった。シニシストとかシニカルという言葉は彼の言行から生まれたともいわれる。とにかく伝説的になった逸話の多い人物で、そのどれもがエクセントリックというか奇矯というか、常識人から見れば毒気の多い、然し正に「寸鉄人をさす」鋭さを持った人物だったのである。ディオゲネスは当時、既に知られた賢人であった。その評判を伝え聞いたマケドニアのアレキサンダーは、態々、彼の樽の家を訪うて、どんな望みでも叶えるから自分の先生になって欲しい、と懇請した。それを謝絶して、ディオゲネスは「そこを退(の)いてくれないか、陽が当たらなくて困る」といった。地上の名利や名声を一顧だにしないシニシストの面目躍如、とり分けディオゲネスらしいエピソードとして語り伝えられている。彼に断られたアレクサンダーは止むなくその任を「倫理、エートスの人」アリストテレスに求めた、といわれている。ディオゲネスとアリストテレスの対照が、それはそれで大いに面白い。アレキサンダーが、アリストテレスでなく、先ずディオゲネスを選んだところが面白いのである。
 扠(さ)てシニカルcynicalの語はギリシア語の「犬kyon」に由来する。一六世紀頃にcynicusというラテン語の形容詞ができ、今日的意味でのシニカルの語が定着して行った。古代ギリシアにおいて、犬は全く相反する二つの意味があった。一つの意味は今でもそうだが、主人に対する忠実さ、誠実さである。当時アテナイの界隈を、多くの野良犬が好き勝手にうろついていたらしい。その犬の気儘な振舞いに手を焼かされていた人が多かったのだろう、二つ目の意味は「図々しさ」や「恥知らず」という非難めいたものである。ディオゲネスを「犬のようcynikos」というのは当然後者の意味においてであった。実際、酒樽に棲む彼の暮らし振りは野良犬のそれのように映ったことだろう。彼は昼の日中、ふらりとアテナイの街に現われ、手燭を翳(かざ)しながら「この街に人間はいないのか?」と探して歩いたという。ギリシアの代表的な都市に人間がいない訳はないのだから、彼の挙動は皮肉でシニカルである。因に、人間anthroposは「他の動物に較(くら)べて、自分の見たものを能(よ)く観察し考量する」動物なのだ、とプラトンは「人間」の語の原義に溯って説明している(『クラテュロス』399c)。ギリシア人は「見る」という動詞を沢山持っていて、そのどれもが人間的に意味深いもので、イデアも理性も「見る」という語から派生している。その意味で人間は見ることのできる動物だった。そのことを踏まえるなら、ディオゲネスの「人間はいないのか」という皮肉は、アテナイには物を見る眼力のあるものが一人もいない、という意味になる。
 そして白昼に手燭を翳していたのは、この日光の下でさえ何も見えないのならせめて手燭でも持ってみたらどうだ、という強烈な当て擦りの追い討ちである。通常、こういう辛辣な毒を吐きかける人間は余り好まれないとしたものだろう。こういう人間は敬遠するに如(し)くはなしと、洋の東西を問わず俚言(りげん)の類が教えている。無用に「薮ヲ突(ツツ)イテ蛇ヲ出ス」よりは「触ラヌ神ニ祟リ無シ」だ、と。だがギリシア人にとって、毒と薬は同じものだった。ファルマコスpharmakos、薬学や薬局pharmacyの元になる言葉がそれを教えてくれる。私たちも「良薬ハ口ニ苦シ」という言葉を持っているが、ディオゲネスの言動の手厳しさと苦さこそ、彼の教えが並々ならぬもので、鋭く人間の本質を突いている、つまり薬が効(き)いている証拠である。
 知識epistemeという最良の薬でさえ、服(の)み方を誤まると却(かえ)って毒になる。策士ハ策ニ溺レルといわれるが、生半可な知識は時に持ち主の足を掬(すく)うことになる。知慮も、それが賢(さかし)らに分別許(ばか)りに拘泥するのでは、人間の精神を蝕む毒となりかねない。「無知の知」を解いたソクラテスに比して、ディオゲネスは知の持つ危うさにも注意せよ、と教えたことになる。或る人がディオゲネスに「貴方は大変な学者だそうだが、どんな本を書いたのか」と問うたとき、彼は「君は本物のイチヂクより絵に描いたイチヂクの方を好むのか」と答えたそうである。現実の生活を離れた空虚な知を披瀝してみても、大阪弁でいえば「それでナンボのもんや」とディオゲネスはいったのである。この考え方は彼に独特の人間観、世界観に裏打ちされたものだったが、それは然し、ギリシア人に長く継承されてきた、一つの由緒正しいものの考え方だったのである。にも拘らず、彼の考え方がシニカルであり、彼自身の言動から「奇人」の名を忝(かたじけの)うすることになったのは、その頃もう、彼の考え方が当世風ではなく、少々時代遅れになっていて、敢えて古風な考え方を貫く彼が奇異に映ったからだろうと思われる。
 先に、私はディオゲネスとアリストテレスの対照が面白いといったが、その意味は、敢て対極論するならということだけれども、ディオゲネスが昔ながらの考え方をしていたとすれば、アリストテレスは新しい考え方をしていたということである。人間集団、社会にとって最も根本的なことは「自然physis」、あるがままの人間の振舞いか、「法律nomos」、人間的な取り決めかという考え方の相違である。人間社会に関するこの根本的な価値観の相違は啻(ただ)にギリシア的なものというのではなく、例えば中国において、「大道廃レテ仁義アリ」という言葉にも窺われる。大道、自然の理法を尊ぶべしとする老荘思想と、仁義、人間の尊ぶべき倫(みち)を掲げる孔子の教えとの対比である。孰(いず)れの場合も、自然から法律、大道から仁義、詰まる所、自然から人為へという流れだった。
 とまれ「人間はいないのか」というディオゲネスの言葉には、もう一つ別の然(しか)もずっと本質的な意味があった。ディオゲネスの考える人間、本当の人間、それは気生(きなり)の人間であり、もっといえば「生(き)なり」の人間、自然のままのピュシス的人間のことだった。けれどもアテナイほどの都市、きちんと法律的に整備されている都市に、もうピュシス的人間のいる筈もなかった。いる筈もない人間を探して歩くディオゲネスの姿を、当時のアテナイの人々は決して変人の奇行、蛮行と蔑(さげす)むことはできなかったろう。彼が探している人間は自分たちの過去の姿だったからである。
 御存じの通り、アリストテレスは「人間は社会的動物である」といった。人間社会とは、人間的な決めごとを人間が互に守り合って成立する。法律、ノモスを守ることが社会の人間の生き方の基本となる。それが倫理、エートスである。アリストテレスはそのような倫理を説いた人である。アリストテレスは少しも間違ってはいない。然も彼の考え方は、近代以降の国家において、益々妥当するのである。だが、アリストテレスの人間観や国家間の妥当性を認めながら、何処かしら肌合いの悪さを感じてしまう人間が何時の時代にもいるものである。非アリストテレス的な生き方も、確かに人間の一つの生き方だったからである。ディオゲネスの生が憧れられる理由も分かる、というものだろう。