兼好法師から話が始まってソクラテスに及び、更に伝説的奇人である「樽のディオゲネス」とストイシズムのことを語ってきた。 突然に話が飛躍して恐縮だが、それにしてもこの頃、私たちの周りに変人、奇人と呼ばれる人が少くなったように思う。曾【かつ】て確かに存在した職人気質や名人気質を持った一徹な人に出会う機会は滅多にない。誰もが円満な常識人、健全な社会人、つまり凡人、凡【なみ】の人になって、非凡超凡の人は殆どいない。物作りの職人たちが「芸術家」と呼ばれることを望むようになる。芸術家、これは一九世紀前後に生まれた「物作りの人」の新しいイメージな訳だが、このイメージが一つの社会的ステータスになり、芸術家にそれ相応の振舞い方を要求することになる。芸術至上主義といったことが喧伝された頃は兎も角、昨今、芸術家であるためには、決して社会から孤立して一刻者を通す訳にはいかない。孤高の芸術家、寄る辺なきボヘミアンといった芸術家像は、いってしまえば、いまでは芸術家の偶像でしかないだろう。もしそんな人がいたとしても、彼の作品が世の中に出ることはないし、必定、芸術家と認められる機会さえない。 思うに、教育が行き届いた所為【せい】ではないだろうか。教育は人を平均化するのには有効だと思うが、変人や奇人を育てるには不向きなのである。彼等はひとりでに平均化のシステムから食【は】み出してしまう。変人奇人は自【おのず】から特異的 singularis であって普通 mediocris ではない。 mediocris の語は中心とか真ん中を意味する medium に由来する。英語でいうと、 medium は mean である。普通とは中心、真ん中近くにあって、グラグラすることなく安定しているという意味である。天秤の中心や梃子【テコ】の支点のことを考えていただければよい。この安定性の故に、昔から「中庸の徳」とか、 happy mean , golden mean といわれてきた。特異的であればあるほど中心から逸【そ】れて不安定になる。尠【すくな】くとも近代以降、教育は人間を安定した生活に導くためになされる。そして教育の社会的成果は「最大多数の最大幸福」となって実現される筈である。とすれば、変人奇人が教育システムの類【たぐい】に馴染【なじ】めなくても、当然といえば当然ということになる。 だが教育システムの問題ではなく、抑【そもそも】、時代がそういう人間を必要としていないのかもしれない。確かなことは分からないけれども、何となく誰も彼もが適当に物分かりがよく、何ごとにつけ、浅く広く関わって深入りしないことを以て分別とする、そういう時代のようではある。評論家諸氏が「人間関係の希薄な時代」などと判じるのは、多分、そのことを指しているのだろう。だから一寸したことでキレたりする。キレて多少の暴挙に出ても、それが社会人としての致命傷にならないことを、当人も周りのものも能く心得ているからである。関係が浅いので、「深手」を負うことも負わせることもない。浅さの蔓延に反比例して、一寸ものに執心しただけで、もう「ハマった」とか「オタク」などと、一角【ひとかど】の奇人扱いをされる。その程度では、精々、「変人」がよい所だろう。斯くいう私も、このページを借りてハマった人間のオタクっぽい文章を綴らせて貰っている。目下、私は変人見習いといった段階で、まだまだ奇人への道程は果てしなく遠いことを実感している。 変人、それは偏人、一風変わった、文字通り偏った人間のことだから、奇人もそこに含まれている。だが変人から奇人へ昇格するのは並大抵ではない。或いは両者の間に見えない結界があって、大方の変人は変人の儘に終わるのやもしれない。奇人という呼び方には、驚嘆や畏敬の念が込められていわしないか。変人の為人【ひととなり】は何となく鬱陶しくて取っ付き難【にく】いが、奇人のそれともなると、そこに自から清逸の気が漂い、何処かしら飄々とした巧まざるユーモアさえ感じられる。それを見ていて、実【まこと】に心地よく憧れの気持が涌いてくるくらいである。単なる奇行の人では、所詮変人である。奇行の奥に深い叡知や十分の思慮を湛えて、漸く奇人の国の門前に立つことができるのだろう。とはいえ、入門できるかどうかは別のことなのである。 それもその筈、「奇人」の奇【くすし】の字には、人間離れしているとか、人知図り難いといった意味がある。奇【き】という漢字は「珍しいもの」、とり分け「卓れたもの」を指す。孰【いず】れにしても奇人は超凡の人、謂わば神気を帯びた人のことで、努力すれば誰でもその域に達するというものではないようなのである。奇人は「神に愛【め】でられしものamadeus」なのだろう。ディオゲネスの尋常で無さは、ひょっとすると、神の召命の然らしむる所だったのかとも思う。とすれば、プラトンに倣って、ディオゲネスのことを「詩人」と呼ぶべきか。 プラトン的意味での詩人に匹敵する人間として、屡々、作曲家モーツァルトが挙げられる。名前だけがアマデウスamadeusなのではない。彼は決して名前負けせず、神の恩寵を忝【かたじけの】うした。但し詩人ヘルダーリンが直観したように、「神の声を聴いたものは早くこの世を去らねばならない」ことを代償にして。軽佻浮薄で無分別の極みの如きモーツァルトは、謹厳な作曲家サルエリから見れば、度し難い問題児だった。そうであればあるほど、神から見れば、嘉【よみ】すべき寵児だったろう。結果論のようだが、モーツァルトの清澄で平明なメロディは奇人なればこそのものだったのか。 モーツァルトは「メロディの達人」といわれた。そのメロディは人間精神の純粋さの表われのようである。純粋さ、それを「穢れの無さinnocentia」、無垢といってもよい。innocentia、アダムとイヴが「エデンの園」で蛇に唆【そその】かされて「禁断の木の実」を食べる前の、あの純真な心のことをいう。アマデウスであるモーツァルトは、神から直接にこの心を授けられていたのだろうか。サルエリに適わぬ筈である。とまれ、モーツァルトの曲調が齎【もたら】す軽快な浮揚感から、彼のメロディを通して、天界の楽の音を聴く人もいるという。それは聊【いささ】か「聴き過ぎ」というものだろうが、確かに、彼の音楽に人間の苦悩や煩悶といった重苦しさを感じることはない。彼の音楽に色々な哲理を求める人がいる。それは聴き手の特権だし、また聴き手の喜びでもあろう。ただ私には、モーツァルトの音楽はもっと単純な、然し動【やや】もすれば忘れ勝ちなことを教えて呉【く】れているように思える。即ち、美しいものは美しいという単純な事実をである。 美しいものの美しさは端的な事実である。この事実に理屈をつけたり説明したりしても、ためにするだけのことになる。端的な事実を前にすると、それらの理屈や説明は、結局、戯言【たわごと】に過ぎない。戯言なら、知的な暇潰しとしておくのが賢明というものである。戯言に某【なにがし】かの実際的意味を持たせようとすると、謂わばソピストの言説【ドクサ】のように、現実の充実と思弁の空虚との境界が判然としなくなり、何事につけ訳が分からなくなる。要する、根の浅い知識がとび交うだけのことになる。 美しいものは美しいが故に美しい。この端的な事実が人を驚かせる。感動、そういう端的なものに触れて、知らぬ間に心が動かされ、カントの言葉を借りていうと、生きているという実感が高まるのである。「美しいが故に美しい」というのでは同語反復【トトロジイ】で何もいっていないに等しいなどといい始めた途端に、美に翳【かげ】りが兆す。端的なものが端的でなくなり、あやふやなものに転落してしまう。そして一度あやふやになったものは、残念ながら、もう二度と端的になることはない。美の喪失である。モーツァルトの旋律をただ聞くだけで、それでよいように思う。態々【わざわざ】、聴こうとしなくても。彼をも含め、奇人は端的なものは端的だという単純なことを人間に伝えるために、神が人間世界に遣わした使者、伝令使keryxなのかもしれない。とすれば私たちは、楽の音を聞きながら、神の声を聴いているのだろう。
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