皆さんは、日頃からさまざまなメディアで、有名な西洋絵画や彫刻のイメージを目にしておられることと思います。日本で、ヨーロッパの美術を学ぶということに特に違和感もないでしょう。ところが、いったん学習を始め、美術史の「流れを概観する」ために西洋美術史の概説書を開いてみると、世の中に流通する「名作」のイメージではない作品が意外に重要だったり、地名や人名のカタカナの氾濫についていけなかったりと、いろいろととまどうことも多いはずです。また、小学館や新潮社の西洋美術全集を前に、古代から近代までの時空の大きさと作品の多さにため息をつくこともあるでしょう。シラバスには「まず西洋美術史の概略をつかんで」と書いてありますが、そんなことをしている間に時間は過ぎ、レポートの締め切りはやってくる‥。けれど、これにめげて作品を見る喜びまで失ってしまうのでは、ヨーロッパ美術史を学ぶ意味がありません。 では、「作品を見る」とはどういうことでしょう?百聞は一見にしかずといいます。では、本物の作品を目前にしなくては美術史が学べないのでしょうか?たしかに、本物の作品を見ることは大切です。薄暗い教会の中から浮かびあがるモザイクの反射や、広場に置かれた彫刻の威風堂々たるさまは、作品を構成する重要な要素でしょう。けれど、作品を前にしたときに何が見える=わかるのかという問題はまた別です。人間の目はおかしなもので、大げさに言えば見たいものしか見ないのです。現地に赴いたからといって見えないものは見えません。だから一見しただけではわからない、これもまた真実でしょう。 さて、なぜこんな話をするかと言えば、テキスト『ヨーロッパ美術史』の意図するところをまず知って頂きたいからです。このテキストは、通常の概説書のように「流れ」を説明するわけでもなければ、ハンドブック形式で大量に作品を掲載するわけでもありません。作品を個別に解説するスタイルを取っているのは、まさに、「作品を見る」構えを皆さんに学んで頂くためなのです。そこで実験です。まず、テキストの作例を一つ選んで、図版をじっくり観察し、みなさんにはどのように「見えて」いるのか考えて(書いて)見ましょう。その上で本文を読んで、筆者が一つの作品のどこに注目し、どのような立場で語っているのか、一つの作品の背後にどれだけのものを見ているのか確認してみてください。自分に何が見えてなかったのか気づくでしょうし、逆にテキストには書いてないけれど、自分が気になることも出てくるでしょう。そこで生まれたもやもやとしたもの、納得できないものを解消するため、本物を現地でとはいわずともせめてもっとはっきりした図版を見たい、とか、この作品に影響を与えた作例を知りたい、とかいう欲求が生まれてくるかも知れません。そういった動機付けから概説書や全集を開いて欲しいのです。「ヨーロッパ美術史」概略をマスターするぞ!という受験勉強のような学習はあまりに悲しいではありませんか。作品をしっかり見ること、作品を見る姿勢を常に問いかけること、これが基本です。 実際に課題に取り組むに当たっては、まずシラバスをよく読んでください。課題や試験問題を読むことがすでに学習の始まりです。次に、それぞれの時代を理解するためのポイント(テキストの各章の冒頭にある問題設定部分が参考になります)を念頭に置きつつ、とにかくたくさんの作例を見ましょう。残念ながらヨーロッパ美術の場合、とりわけ古いものに関して本物を見ることはなかなか難しいのですが、図書館の全集図版などを積極的に利用しましょう。課題にふさわしく、レポートで扱えそうだという作例の目処がある程度たったら(一つかも知れませんし、複数かもしれません)、その時代、その作品についての参考文献を探してみましょう。テキストと合わせて読めば、与えられた課題に対して自分なりの問題設定が見えてくると思います。あとは、レポートを書く手続きに従ってください。 このような作業を通して、一つの作品の背後にある別の作品を知るという体験を重ねていくうちに、あるときふと、最初に見えていたものは何だったのだろう?自分は何も見ていなかったのではないか?と思うときがくるでしょう。自分の中にゆっくりと作品を見るための体系がつくられていくこと、作品を見るという体験をそれこそ一生かけて深めていくこと、その第一歩として課題に取り組んで頂ければと思っております。
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