市民が支えるミュージアム(氈j―30年の活動を誇るボランティア―
角橋 佐智子 

 オランダでの長期滞在を終えて帰国してみると、日本のミュージアムはかってない変化に晒されていた。経済不況で私立館の閉館が相次ぎ、国や自治体の財政難から発した新制度、すなわち国立の独立行政法人化や、公立の指定管理者制度の導入などである。要するに財政悪化で急激な“民営化”傾向の大波が寄せて来て現場は戸惑い、先行き不安なミュージアムは“冬の時代”といわれていた。
 しかし、オランダでは一足先にこのような事態を迎えていたが、さしたる困惑もなかったように思われる。公立、私立を問わず、市民たちが日頃ミュージアムと深く関わり、支えていたからである。中でもハーグの海岸にある私立の現代彫刻館Beelden aan Zee(海の彫刻館)においては、140名の近隣住民ボランティアが主体となって立派に運営されていたのには瞠目した。
 ミュージアムは、それを支持する市民が層を成して存在しなければ安定して社会にあり続けられないことを、オランダでの例は示している。近年わが国でもボランティアを導入するミュージアムは増えてきているが、その活動の多くは館に従属的で自律していない。その中で数少ないが館と対等のパートナーとしての立場を確立して活動を続けているミュージアムボランティア団体の事例を紹介し、以下3回シリーズで市民のミュージアムへの関わり方をオランダの例と比較しつつ考察したい。

札幌市にある北海道立近代美術館を全方位サポートしているボランティア団体が「社団法人 北海道美術館協力会(アルテピア)」である。その名称通り、美術館の日常業務をそっくり引き受けて30年の活動歴を持っている。絶えることなく常に180名のボランティア要員を確保し、会員たちは研鑚を積んで質を高め、目覚しい活動を展開している。美術館とは協力体制を堅持しながら、組織的にも財政面においても、完全に自律した団体である。そもそもの発端は、1965年に「札幌アメリカ文化センター婦人の集い」が、北海道に美術館を建設しようという運動に共感してバザーを開き、その利益金を寄付したことに始まる。そしてバザー仲間では美術館での解説のための勉強会なども始めていた。しかし当の近代美術館開館は1977年にずれ込み、市民ボランティアの協力体制の方が先行し、開館より3ヶ月前に「北海道美術館協力会」として旗揚げしている。美術館開館と同時に会は始動し、最初は12名のボランティアで売店が開かれ、翌78年には作品解説も行っている。そして、79年に売店売上利益金を元に社団法人格を取得、名実共に館とは対等のパートナー関係が確立された。当初は人数も少なく、売店、解説、資料整理の3部門だけだったものが、次第に人員も増えて94年からは7部門に拡大し、常時180名を擁する大組織となって今日に至っている。
 同会は事務局の3名のみが有給で、その他の実働部隊は全員無給のボランティアである。協力会ボランティアとして活動するには、まず美術講座(受講料5000円)を受けて8割以上の出席を求められる。さらに6回のボランティア養成研修、部門ごとの研修が課せられる。そして協力会会員としての会費(年間1万円)納入の義務がある。最低これだけの負担をした上で無償の働きに参加しているのである。会の創設時は少人数にもかかわらず、売店の商品の一部を手作りしたり、街頭募金や企業巡りをして資金を集め、美術館にマリー・ローランサンの絵画を寄贈したり、道内の新人画家の顕彰など、多様で超人的な活動を行ってきた。
 180名の大所帯になった現在は7部門となり、活動内容も次のように多岐に亘っている。
@ 事業部・・・会員と一般市民対象の国内外美術研修企画。美術館との共催事業など。
A 広報部・・・会報の発行。美術館のポスターや広報誌の配布。
B 売店部・・・商品販売、開発。
C 解説部・・・美術館のギャラリートーク。アートレファレンスサービス。
D 資料部・・・新聞切り抜き。検索カード作成。スライドマスキング。資料整理。
E 研修部・・・一般およびボランティア希望者対象の講座に関する一切の仕事。ボランティア養成研修の調整。
F 特別活動部・親子教室の実施。区民センター、病院などへ出向き美術や美術館のPR、
        普及活動。
 これらの活動内容からわかるように、売店やギャラリートークなどの館の日常業務は勿論のこと、ボランティア養成事業も自ら行い、啓発やPR活動までボランティアが引き受けている。このような驚異的なボランティア活動は、どんな人びとが、どのような思いで行っているのか。同会が5年ごとに発行している記録集によると、活動員層は50〜60歳代の専業主婦が約7割を占め、圧倒的に女性が多いが97年ごろからは男性の参加も漸増してきている。
 活動の動機は「美術が好き」「社会参加を求めて」などだが、実際に活動してみると「社会還元と思って始めたが、実は自己開発だった」「新しい知識や友が得られた」など、思わぬ結果を得ている。従って活動年数も8年を超える人が40%にのぼり、長続きしていることがわかる。
 なぜ継続できるのかと、最古参の会員のひとりに聞くと「研修に次ぐ研修で、これだけ勉強してきたのだから簡単にはやめられない」と答えた。2年近い研修の後も自己研鑽を怠らず、こうした努力の蓄積はたやすく捨て去れるものではない。その働きが有償か無償かの問題ではなく、根源的な人間の喜びとしての活動となっている。
 30年も前からこのような自律的な市民によるミュージアムの支援体制が、日本の北部に発祥していた。それには幾つかの要因が考えられるが、まず当時の社会的背景が大きく影響している。1972年の札幌オリンピックや75年の国際婦人年など、当地の女性たちの意識が外に向かう気運と、美術館建設が機を一にしたことがある。本州からの転勤族の妻たちは、新しい土地での繋がりを求めていた。文化施設の少ない所での本格的美術館建設は市民ばかりでなく、美術館関係者にも期待が大きかったと思われる。海外のボランティア活動を見聞してきた館当局もボランティア導入に積極的で、当初から館依存型でない自律した活動を目指していた。
 第1号の記録集の座談会で、ボランティア活動員が自分たちの活動について次のような発言をしている。「美術館から依頼されて手不足を補うということではなく、私どもボランティアが必要ではないかと思ったことを申し出て、それが館も必要と認めたとき活動を始める。主体はこちらにあるのですね。来館者と美術館との接点にいる大事な仕事だと思うのですよ」。創設当初から同会のボランティアは活動の意味を正しく理解して自覚的に行動してきたのである。そのことが衰えることなく30年間も美術館を支えることが出来たと考えられる。              (かくはし・さちこ 本学修士課程修了)