漆工史を学ぶ人のために
森戸 敦子 

美術工芸の歴史は、現実の作品との対話から始まる。実作品からは、写真では把握できないディティールが生きいきと見えてくるからである。そのためには、美術館・博物館・骨董商などに通い、多くの実作品を観察しなければならない。さらに陶磁器・漆工・染織・七宝などの工芸作品の研究をする人は、その制作工程や技法・技術についても深い知識が要求される。工芸作品を美しく彩る色や文様・意匠は、技法・技術によって裏打ちされているからだ。工芸作品を見るとき、これらを把握することは不可欠である。作品を制作する体験教室などに通うことも、技法・技術への造詣を深めるひとつの方法である。しかし、陶芸や染織、七宝と違い、漆芸の体験教室はあまり流布していない。また、実際に作家に出会うこともまれである。したがって、技法・技術に関することは書物から知らなければならないのだが、漆工史の研究書を読んでいて最も苦心することは、実に技法・技術や制作工程の把握である。次の書籍はこうした技法上の悩みに手を差し伸べてくれる良書である。併せて漆工の歴史に関する基礎文献を熟読していただきたい。

@ 松田権六『うるしの話』新書版:岩波新書(青版)・1964年・620円(本体602円)・ISBN4-00-414072-2、文庫版:岩波文庫・2001年・735円(税込)・ISBN4-00-335671-3
漆工史を研究する人にとっても、漆芸作家にとっても、一度は読んでおきたい漆工史のバイブル。人間国宝の著者(1896−1989)が、日本の漆工史、漆液の精製法、漆器の製法、加飾技法ほか、自らの60年にわたる経験を述べたもの。漆工史的見識を兼ね備えた漆芸作家としての目は含蓄に富み、有名な作品の解説ひとつをとっても非常にデリケートな指摘がなされている。技法や制作工程に関する記述は、単なる手順のみならず難易度や手間隙の多寡など、経験に基づく解説がなされており理解しやすい。実作を経験しない漆工史研究者にとっては必読の箇所である。ここを読むことによって、作品に関する技法的な知識が豊かになると思うし、ある作品になぜこのような技法が使われたのか、という視点で作品を見ることもできるようになことと思う。また、自分史の箇所については、明治から大正という今日では既に歴史となった時代のことが、松田氏自身の実体験として述べられており、非常に興味深い。初版発行が今から40年も前であることを踏まえつつ、熟読してほしい。
A 室瀬和美『漆の文化――受け継がれる日本の美』、角川選書、2002年、1500円(税別)、ISBN4-04-703343-X
漆芸作家で創作活動とともに文化財の修復指導も行っている著者が、自らの見聞と制作体験を平易に述べた一冊。あとがきによると、室瀬氏は松田権六にも学び、『うるしの話』を旅先にまで携帯しているという。漆器の製法や技法を制作体験に基づいて解説する箇所は『うるしの話』とも共通するスタンスだが、より細かく丁寧である。創作作品のみならず修復活動にも定評のある著者らしく、文化財の保存修復に関する体験談と見識は非常に示唆的であり、将来、学芸員等を目指す学生は一度、目を通していただきたい。『うるしの話』を読んだあと、2冊目の漆芸作家モノとして最適である。
B 小松大秀・加藤寛『漆芸品の鑑賞基礎知識』至文堂、1997年、3600円(税別)、ISBN4-7843-0160-7
至文堂によるおなじみの「鑑賞基礎知識」シリーズの漆芸編。東京国立博物館に長らく勤めた小松氏・加藤氏に7人の研究者・技術者が加わった著作。意匠に造詣が深い小松氏と技法に関する眼識の深さに定評のある加藤氏が携わっているためか、「基礎知識」とは言いながら、歴史的な面にも技法的な面にも非常に微細に対応している。ことに、技法については、描き起こし図や断面図などが充実しており、実作を経験しない研究者にとってはビジュアル的に技法を理解することができる良書である。頭から順に読んでいくのも良いし、辞書的に使用するのにも十分である。漆工史を学ぶ学生にとっては、是非、座右に置きたい基本文献中の基本文献である。
C 灰野昭郎『美術館へ行こう 漆の器を知る』新潮社、1997年、1800円(税別)、ISBN4-10-601864-0
京都国立博物館に長年勤めた著者が、漆の名品を数多く解説した一冊。時代順に掲載されているため、漆工史の概略を知るのにも、有名な作品を覚えていくのにも最適である。1作品が2ページずつカラー図版入りで掲載されているため、解りやすく非常に記憶しやすい内容である。灰野氏は見識の幅広さと深さに加え、研究手法もオーソドックスで偏りがなく、著作も多く文体も平易であるため、漆工史のビギナーには氏の著作を数冊読んでみることを強く勧める。