ロダン受容と背景
 (2001年度)
千田敬一 

 ロダンの彫刻は、母国フランスで最初は否定されました。「鼻のつぶれた男」「青銅時代」「地獄門」「カレーの市民」「バルザック」など、これらの作品は発表されるたびに不評で、官立の展覧会で落選したり、依頼主から受取を拒絶されています。ロダンは、フレデリック・ロートンに「大抵の場合、いつでもと言っていい位ですが、私の作った銅像に就いて物議の起こる時は或る一寸した誤解が因になって玉がころがり始めるのです。(「ロダンの言葉」高村光太郎選訳)」と述べている。ロダンは誤解と言っているが、19世紀末フランスの人々にはロダンの彫刻は奇異に見え、ロダンの意図が理解できなかったと思われます。
 一例を上げれば「青銅時代」の不評の理由は、この作品があまりにも生き生きして見えるというものでした。生き生きしているのは、人体から直取り(身体に石膏をかけて、直接形を雌型に取ること。)したに違いないという誤解に基づくものでした。その背景には、19世紀ごろ人体からの直取りが実際に行われていた事実があったようです。サロン彫刻を風刺したポンチ絵に、モデルから直取りしている彫刻家の姿が描かれたものがあります。実際に人体から直取りした石膏像は、20世紀の立体造形家ジョージ・シーガルの作品に見られるような空虚で淋しい世界ですが、シーガルはその空虚な世界を自己の思想と合致させて表現の域まで高めています。
 19世紀のサロンの彫刻家達は、ロダンの強調された肉付けと、量の移動と面の構成から生まれる生命感を見取る力が殆ど欠落していたようです。従って当時のフランスの人々は、ロダンのような生命感を持つ彫刻は見たことがありませんでした。ロダンの彫刻にある動勢、強調、量、面などの造形要素は、自然そして古代の彫刻に存在しているものです。ロダンは、自分と同じ或いは近い時代の彫刻に、なぜそれらの感覚が希薄なのか考えたと思います。アカデミーの彫刻家は、自ら規範を作りそれに合わないものは認めませんでした。自分は何を作りたいのか、何を見ているか、何を考えているのかという問題に目を向けることは、アカデミーが作り上げてきた権威を揺るがすと考えたからです。アカデミーは、なぜ工人を否定して芸術家という自分達の新しい制度に移行したか、その原点を忘れてしまったのです。ロダンはアカデミーから拒否されるなかで、アカデミーが見忘れている自然の規範と古典彫刻の本質を応用して、自らの視野と思想による表現を作り上げていきました。美術と時代の関係は密接なものです。欧州の近代美術の改革は産業革命の余波のなかで行われ、日本の美術の改革も明治の勧業政策の波のなかでなされました。明治9年工部美術学校が開設され、イタリアから来日したラグーザにより、彫刻の授業が始まります。ラグーザは優秀な彫刻家でしたが、日本では彫刻は賤業という偏見があり、当初は学生の募集に苦慮しています。その頃の日本の彫刻界は、明治維新により大名などの庇護を失い、追いかけるように廃仏希釈などが行われ、仏師、宮彫師、面打ち師などの旧来の彫鏤師達の生活基盤は壊滅状態にありました。かろうじて濱物と呼ばれた輸出物が一時盛んでしたが、其の中心は根付などの牙彫りでした。木彫は需要がなく衰微の一途で、牙彫りに転向した仏師や宮彫師が多かった言われています。その様な時代のなかで、彫刻が生き延びれたのは美術工芸が万国博覧会に於いて好評で、政府が産業振興策の一環として援助したからです。工部美術学校は明治15年に、明治政府が西南の役により財政難となり閉校されます。明治22年に東京美術学校が開設されますが、国粋主義の傾向にあり彫刻は木彫のみでした。塑造科が設置されたのは明治32年になってからです。1900年のパリ万国博覧会に合わせ、アルマ広場にロダン展示館が開館されます。その展示を彫刻家新海竹太郎や画家久米桂一郎が見た記録があります。その時の印象を新海は、変な物だと感じたと記しています。新海は日本の仏師の家に生まれ、ドイツに留学してアカデミックな彫刻の勉強をしました。その目でロダンを見れば、違和感を感じるのは当然でしょう。東京美術学校木彫科出身の白井雨山は、明治34年文部省留学生として渡欧します。ロダンはその頃彫刻の第一人者として世界に広く知られていましたから、雨山はロダンの作品を見ます。その感想を『美術新報』(明治37年7月)の、「新帰朝者の時の声」のなかで少し触れています。光太郎が後に、雨山にロダンに就いて質問している事を考え合わせると、推定ですが雨山はロダンの作品写真を日本に持ち帰るか、送っていたと思われます。高村光太郎の日記によると、36年にロダンの作品の写真を何処かで見ています。当時、光太郎がロダンの写真を見れる場所として可能性が一番高いのは東京美術学校ですが、42年頃校舎と共に資料が焼失し確認出来ません。同じ年に荻原守衛(碌山)も、ニューヨークでロバート・ヘンライに勧められロダンの彫刻を見たと考えられます(注一)。翌37年、光太郎は『ステュディオ』(1904年2月号)で「考える人」(写真?)を、荻原はパリのサロンでロダンの「考える人」を見ます。以前は荻原も光太郎も、「考える人」を見たのがロダンとの最初の出会いと考えられていました。その出会いにより、ロダン芸術に対する目が一気に開かれたように言われてきましたが、その前にロダン彫刻の片鱗に触れていたようです。
 荻原と光太郎が明治40年代当初にロダンの彫刻の本質を日本に伝えた時、日本の若い美術家達(太平洋画会研究所や東京美術学校の学生など)には、ロダンの名前を聞いたり、作品の写真を見た者が何人もいたと考えられます。その中の一人に、太平洋画研究所絵画部に通っていた中原悌二郎がいます。時代ははっきりしませが、中原は荻原が帰国する以前に夜店でロダンの「考える人」の写真を見つけてきます。その様子を親友の中村彝が「中原君を憶ふ」に、写真を仲間に見せて「…聞いた事もない彫刻家だが、まるでミケランジェロのように獰猛だ。この線を見ろ。この山のような線を見ろ。(中略)俺は昨夜一晩木炭で描写してみたが、いくら描いても大きくばかりなって木炭紙を二枚つないでも入りきれないのだ。この山のような線は殆ど無限に近いように感じられて仕方がない」と叫んだと記しています。稀には中原のように、天性の資質によってロダンの視野と最初から同調した作家もいます。
 しかし殆どの作家は、先ず形の模倣から入るのが普通でした。北村西望の「若き日の苦悩」(1912年・東京美術学校卒業制作、写真?)を見ると、ロダンの「考える人」の模倣が見られます。この作品では動勢が中断され、肉付けに統一がなく、ロダンが「なにを見て」「なにを考えて」造形しているかに目が向けられていません。「光に打たれる悪魔」(1917年)に至っても、ロダンのポーズを連想させるにも関わらず、間口でモノを見る性癖が抜けていません。西望のロダンの摂取は、模倣の域を抜けず彫刻に本質的な強さが現れないで終わっています。文部省展覧会で荻原とライバル視された朝倉文夫も、一時ロダンの形の模倣を行っています。朝倉は抜群のアカデミックな技術を持つ作家ですが、明治末にロダンの移入がなされたおり、やはりその摂取に努めています。しかしその摂取は、自己の技術でロダンを計るというか、荻原に対向意識を燃やしているような所がありました。したがって、荻原の没後直ちにアカデミックな表現に戻っています。荻原とて先ずロダンの形の模倣から入っています(写真?)。この彫刻はパリのアカデミー・ジュリアンで作ったもので、この頃の荻原はロダンの彫刻の強さを外形力と見ている時期です。朝倉も同じような彫刻を作って(写真?)、明治41年の第二回文展に「闇」と題して出品しています。荻原は写真?の彫刻を作った後にロダンに直接会って教えを受け、それを機として形の模倣から脱しています。「坑夫」はロダンに会った後に制作された作品(写真?)で、ロダン彫刻の要素である、動勢、量、面、肉付けを会得して作られています。その意味で「坑夫」は、ロダンの影響を受けた彫刻と言えます。荻原が、模倣から影響、そして自己表現へと展開が成せたのは、最初見た彫刻がロダンの本物であったことが重要な意味をなすと考えられます。模倣は摂取したモノの外形転用にすぎず新たな展開を生みませんが、影響は摂取するモノの要素を理解し新たな展開が可能な受容を指します。戦前東京美術学校で長い間若い人達を指導した北村、朝倉、建畠大夢らと、ロダンとの関わりを考えると早い段階で留学してロダンのオリジナル彫刻を見なかったことが、彼等にとっても日本近代彫刻に取ってマイナスであったと思われてなりません。
 光太郎は、木彫家高村光雲の嫡子で幼少のころから彫刻刀を与えられ手ほどきを受けました。光雲は、『光雲回顧録』に書いているように伝統木彫を護る気概を持ちながらも、洋風彫刻の写実性に強い関心を示しています。この進取の気風が息子達の自由を認め、光太郎を生み出したといえます。光太郎は芸術分野にとらわれない表現力と感性を持っていましたが、その優れた感性がともすれば才能を拡散させた嫌いがあります。例えばロダン彫刻の本質に迫りながら、身に染みついている伝統的木彫の血が騒ぎ、その相克からどこか冷めてしまうという内的葛藤が見えます。荻原は芸術に関しては白紙の状態で、何の疑念もなく本質を追い求める動物的感性を持っていました。その意味で荻原は、ロダン彫刻を日本に伝える適役であったと言えます。光太郎は内的な葛藤を鎮める目的もあり、当時の日本に欠けていた彫刻を支える造形理論を、『ロダンの言葉』として訳出するなど理論から近代彫刻の普及につとめました。
 帰国後の荻原の彫刻を見ると、ロダン、エジプト、日本の仏像彫刻、ギリシャなどの影響を一点一点の制作のなかで確かめているように見えます。「女」は荻原の絶作ですが、同時にロダンから一歩踏み出して、荻原自身の表現に移行していく可能性を示す作品となっています。それは、「女」の像を正面から見ると二等辺三角形、側面に廻ると直角三角形にスッポリと入る(写真?)と言うような、ロダンの言うプラン(面)とかさなる幾何学的規範に沿って作られているからです。さらに荻原の「女」における幾何学的規範の応用を見ていくと、側面に廻ると足から膝、膝から腰、腰から胸、胸から首、首から顎、顎から額と常に相対する力の均衡が計られていることが見て取れます。正面から見ると右大腿部が前方内側に拈られ、左周りの螺旋の動きが始まり、上方に向かう動勢を生み出しています。また全体を奥行きで見ていることは、例えば胴の厚みや、顎から左足のつま先までの距離を思い描くことで諒解できます。これらの造形要素一つ一つは、像全体を構成する一部でしかありませんが、その部分が全体の中に包まれ活躍することが大切だとロダンは言っています。
 ロダンやセザンヌは、自然には、円、三角錐、円柱、四面体などの幾何学的規範があるという思想を持っていました。ロダンもセザンヌも自然から学ぶ姿勢を貫き、「あるがまま」に「見えるがまま」に自然に手を加えないで表現せよと言っています。しかしこれは私達が良く知る二人の表現と、一見相容れないように思われます。ですが「幽霊の正体見たり枯れ尾花」や「痘痕もえくぼ」からも判るように、人の目は思想によって見るモノを選択し、思想に沿った見方ができます。『白樺』のロダン号に、ロダンが贈った写真に添た言葉として「最微なる或いは最大なる実在、例えば太平洋、雲嶽、草木、昆虫の精霊を窺視し得たる日本の芸術は、また吾が踏む道なり」とあります。雲嶽、草木、昆虫などに宿る自然の規範は、露わな形で存在している芸術の共通言語です。ただ多くの流動する要素の中に混在しているので、人は純粋な形では見慣れていないだけです。
 例えばロダンの「洗礼者聖ヨハネ」(写真?)と、そのモデル(写真?)を比較すると、ロダンの彫像の方が存在感、生命感共に溢れているように見えます。それは作家が何を強調すれば生き生き見えるかを、視覚を通した規範として実感しているからです。例えば丸いと思われている木の幹を熟視すると、四角の一つの稜角を見る側に向けて立っている四角柱に見えてきます。このように間口でなく奥行きで見る視覚の原則に従うと、日頃見慣れている自然が強さや生き生きした感じを持つ世界に生まれ変わります。その覚醒を彫刻において行ったのが、日本におけるロダン芸術の受容であろうと考えています。

(注一)Ms.Gail.Levin.Edward Hopper.An.Intimate Biography,New York,1995.