座談会「デッサンの含意をめぐって」その2
 1996年11月に京都造形芸術大学・京都芸術短期大学で行われたデッサン・ドローイング展に際しての座談会
加藤哲弘/岡田温司/井上明彦/上村 博 

描写としるしづけること

上村:先ほどイメージ・メイキングということばが出ましたが、このほうが、いろいろな歴史的な流れのようなものをもっているデッサンという言葉より「描くこと」に近いのでしょうか。
岡田:そうそう、垢みたいなものがたぶんないからだと思うのですが。でも、ゴンブリッチは垢があるか。(笑)
加藤:でも、それはいいんじゃない。その時点その時点で、そういう垢というか、伝統のしがらみのようなものが出てくるのは、しかたがないでしょう。
上村:イメージ・メイキングというのは、言葉の響きからいきますと、もちろん絵画などにかぎらない広いものでしょう。
加藤:そう、チンパンジーがこう引っかいたっていいんじゃない。
上村:だいたいそれは、どんな局面を想定して使われる言葉なのですか。
加藤:まず一つは、アートとか、それこそデッサンとか、そういう言葉を使いたくないときに、一般化して、イメージ・メイキングというのはいうでしょうね。それからもう一つは、ストレートな再現性ということにこだわりたくないときに使われると思います。ゴンブリッチの場合、じっさいにあるかたちがそのままに何かのイメージになるのではなくて、かたちはあくまでも引き金というか、一種のフォーミュラ、図式なのだと考えます。その図式を、見る側がさまざまな補正を加えることでイメージが成立する。つまり、なにかを写したイメージが最初に「ある」のではなくて、イメージは、いわばそこで「つくられる」というわけです。だから、メイキングというのですね。
上村:デッサンという以上、内面にしろ外面にしろ、なにかモデルがあるのですね。先ほどの自由画運動ではないですが、そういう規範にはあまりこだわらないような描き方のことを、デピティクティングとか、イメージ・メイキングとかいうわけですか。
岡田:なにかこういうものがあるというのではないと思うんだけど、先ほど加藤さんがいわれたような、それまでのひきずっているものを、それによってなにか遮断できるという。ただ、ゴンブリッチもそうだけど、基本的にそういう自由なイメージ・メイキングのなかから、どうして西洋の人たちは再現性を発見したのだろうという問題意識はあるのですよ。ゴンブリッチの場合もそうですね。最初の洗礼点というのは、ゴンブリッチの場合、欲望とか恐怖でしょう。最初は概念、シェーマではないですよね。最初の洗礼点。この線はマンモスの背中をあらわすということを発見する。最初の洗礼点は、ゴンブリッチの場合、概念図式ではありえないでしょう。
加藤:ありえないね、それは。
岡田:その最初の洗礼点はなんなのだというのを、すごく問題にしている人たちがいまけっこう多いんですよ。アメリカの人類学者のなかで、そういう論争があるんですけれどね。おもしろいんですけど、1980年代以降。そこに、いろいろなのが入ってくるんですよ。呪術とかもちろん、グーランの時代からあるような論争とかね。それはいいんですけど。ゴンブリッチの場合は自然の洞窟をずっと見ていたら、洞窟に皺とかあるじゃないですか。基本的にチャンス・イメージなんですよ、ゴンブリッチの場合は。「seeing as」によって、あるとき見えてくるというのですよ、その亀裂や斑点が何かの動物の輪郭に、われわれの側の欲望や恐怖によってね。
加藤:ただ、はじめはそのことはあまりいわずに、むしろ絵かき歌とか、あのあたりで始めてしまうわけですよ。だから、ハウ・トゥ・ドロー・ア・キャットというのだけど、ネコを描くのにどうすればよいか。丸を描いてこうして、三角を二つ描いて、しっぽを描いたら、ネコになりましたと。これは、線を引いたときに、それが図式になって、図式からネコに見えてしまうという例です。ラビット・オア・ダック(兎とも家鴨ともとれる図)のようなのもそうだけど、『美術とイリュージョン』の冒頭の心理学的な説明をしているときには、そのあたりの、いちばん最初の最初というのをごまかすというか、そこを問わずに議論を始めてしまいます。いま問題になっている最初の出発点からいうと、やはりこれではもの足りませんね。
岡田:だけど、その出発点を問うことの意味があるのかどうかという問題は残るのですよ。歴史的、地理的に措定される問題ではぜったいにないから。西洋の人たちにとっては、再現性という問題はずっとあるから、この線がマンモスの背中をあらわすということをどうして発見したのかという問題意識がずっとある。ここなんですよ。その問題措定自体が、歴史的、地理的に解決できる問題ではないから、3万年前の南フランスのピレネーで始まったという問題ではないわけですから。ただ、その論争が1980年代以降あるのですね。アメリカの人類学の雑誌に出てくるのですが、『カレント・アントロポロジー』という。それは、宗教学者とか、人類学者とか、それこそチンパンジーの研究をしている人とか。おもしろいんですよ、美術史家とか。それぞれ説を出すんですけどね。
上村:イメージ・メイキングという言葉を使う場合、マンモスでもなんでもいいですが、人はどうして引き続きそういう再現を繰り返しやっていくと考えられるのですか。
岡田:それは、一部の人はパランプセストということで説明するんですよ。
上村:上書きする。
岡田:つまり、最初のイメージが、ある種の特権的な地位、宗教画のようなかたちで特権的な地位をもってくるわけだから、そうするとそれはたとえば狩猟儀礼などに使われるとすると、ずっと世代を超えて使われるわけですよ、イコンと同じようにね。しかも、重ね描きしていく。洞窟の壁面だったら消すことができないから、ようするに線が何重にも重なるんですよ。だから、たとえば反復とか記憶とか、その集団の内部で伝えられていくということは、彼らはそのパランプセストという概念で説明しているのですよ。「どうして再現するのか」とは問わないんですよ、いま。「どうして再現性を発見したのか」と問うんですよ。最初から、たとえばマンモスのこの線が引きたかったから引いたという問いかけ、そういう設定とか、そういう言い方自体が誤っているというのですよ。つまり、この線は発見されたものであって、最初からそのために引いた線ではないというのですよ。そういうことはありえないと考えられるのですよ。いったん洗礼が起こると、あとはゴンブリッチのメイキングとマッチングというポッパー・モデルの考え方はけっこう使えるんですよ。だから、ラスコーにまで到達したと彼は考えているのですよ。(笑)ある程度使えたりしますよね、たしかに。だから、最初からその再現の意識などがあったとは、彼らはいまは言わないみたいですよ。
加藤:そういう意味で、再現とかそういうことを避けるというか、そういうことにならないために、最初に戻して、イメージ・メイキングという言い方をするんだろうね。
岡田:そうでしょうね。イメージ・メイキング以前だともっと、マーキングというのがあったかもしれないのですね。たとえば、私が住む場所とか、だれかを埋葬する場所に、木の実でつくった赤い汁をつけましょうとか、なにかそういうマーキングはきっとあったはずなんですよ。
上村:いま、マーキングという言葉が出ましたが、これはたとえば、模倣とか習慣とかそういうものよりも、もっと描くときの最初の行為であって、デッサンとかそういう言葉を使うよりも、もっとおもしろい言葉ではないかということでしょうか。
加藤:というよりも、マーキングという言葉でやっとデッサンそのものにもどってこれたということではないかな。ディゼーニョも、あるいはドイツ語のツァイヒェン、ツァイヒネンもそうだけども、語源は最初の印づけという意味ですね。デッサンの問題を考える場合、いろいろ、中と外とか、主観と客観とか、先ほど垢といったけれども、そういう問題があります。だから、それを避けながら、たとえばイメージ・メイキングではどうだ、あるいは、マーキングではどうだなどと考えてきたわけですね。それが今マーキングというところまできて、やっとディゼーニョとつながりが出てきたということではありませんか。
上村:たとえばなにもない平原、平野に、ここは墓だ、ここは聖なる場所だというような、そういう印づけをする。そういう呪術的なこともマーキングとしては考えられるのでしょうか。
井上:呪術ということもあるでしょうけれど、根本的には経験に刻みをつけるということだと思うんですけど。それは、岡田さんのきらいな超越論的主体の次元の問題ではなく、ある意味での自己確認の行為であり、生存の場所のしるしづけですよね。サルもイヌもやるという。(笑)
岡田:べつにそれは主体ではないなにか、になればいいわけだから。集団のアイデンティティとかなにか。
井上:そのマーキングは、個人的なレベルから集団的なレベルまでいろいろあるでしょうし。
上村:自分の居場所はこうだ、そしてとなりまちはこうであって、そこには川が流れていてとか、そういうことをいちいち自分に確認していく行為が、マーキングだと。
井上:そうでしょうね。たぶん、大地のようなものと、時間の問題に関係していると思うんですが。
上村:大地と、時間的なもの。
井上:時間的には、暦とか、カウンティングですか。それはぜったい関係していると思うんですけど。
上村:行事ですね。
井上:以前、京都の近代美術館でアボリジニの絵の展覧会があったとき、西洋人からもらったチョークでアボリジニの人がはじめて描いた絵というのを見たことがあります。本当かどうかあやしいのですが、それを見たとき、非常に茫漠たるひろがりに丸が描かれているような気がして、衝撃を受けた覚えがあります。
岡田:丸がね、チュリンガ(抽象的なモティーフを刻んだ石や木の板)もそうですか。
井上:そうですね。アボリジニの絵という前情報があって、幻想かもしれないのですが、紙がこれだけの領域なのに、引いている場所はこの紙の領域ではないというか、もっと恐い拡がりのようなものを感じさせる強烈なドローイングだった。とにかく自分の身を守るみたいな。
上村:身を守る。
井上:やはり、サバイバルみたいな。
岡田:リズムという。身体のリズムとか。
井上:それとも関係しているのでしょう。
岡田:だからたぶん、そういう原始のマーキングというのは、描くという行為だけではないわけでしょう。どこかで太鼓が鳴っていたり、だれかがなにか話していたりする。それはそれこそ、先ほどのゴンブリッチのネコの話でないけれど。だから、視覚だけではなくて全感覚と身体が動員されていたと思うんですよ。
井上:そこから再現性には、どうやってつながるのでしょうね。
岡田:再現性? それはいっぱい説があるんですよ。五つくらいあるんですが。
井上:代表的なものを紹介してくれませんか。
岡田:いちばん眉つばなのが、エントプティックというもので、つまり私たちが目をつぶると、まぶたの裏にいろいろなのが走るじゃないですか。それだというわけです。それを描いたのだというわけ。どうしてそれを描くかというと、つまり、エントプティック現象に長じたシャーマンがいるというわけね、集団のなかでね。そうすると、シャーマンは集団の期待を一心に背負っているから、彼はそのエントプティックの、つまり暗い空間のなかで、集団が見たいと思う欲望を彼は満たしてやらなければいけないと。とうぜんそのエントプティックは、集団の欲望とか文化のコードに規定されていて、抽象的なわけのわからない図は、じょじょにたとえばマンモスに見えてくるようになるというわけ。それは自然学者がやるんですよ。それをちゃんと図に起こすわけね。ただ、使えるのは現代人のエントプティックだから、現代人のエントプティックは現代人の欲望に貫かれているから。(笑)彼らの考え方には、すごい矛盾があるんですけど。
上村:19世紀の、夢の説明ですね。
岡田:ほんとうにそうなんです。つまり、イメージ・メイキングの起源を説明しようとすると、私たちは、私たちがもっている芸術観のレパートリーしか使えないんですよ。私がいまのところいちばんおもしろいかなと思っているのは、デービスという美術史家がいるのですが、最初はそれこそほんとうに無償の行為でマーキングが行なわれてもかまわないというのですよ。先ほどの宇宙論的なコンテクストとか、そういうのがなくても、たとえばカッティングトレースで試してみるとかね。いっさい無償の行為として、ほんとうに記号論的な価値をおびない線というのがたくさんあるはずだと。われわれはそれをたくさんつくってきたはずだというわけなんですよ。ただし、たとえばそれが、ある集団がほんとうにパランプセストのような同じ壁面にそれをやっていくと、そういう行為を行なっていくと、つまり何百年前に引かれたこの線と、何百年後に引かれたこの線が、あるときふとマンモスの胴体のように見えてくるかもしれないというわけですよ。
上村:チャンス・イメージの逆バージョンですね。
岡田:そう、チャンス・イメージの裏返しなんだけど、彼ら、彼女たちは、ゴンブリッチのように、じっと黙って洞窟を見ているわけではないんですよ。つまり、行為しているんですよ。それが、たとえば西洋の再現性の発展、たとえば起源というわけ。だけど、それはたとえばオーストラリアで起こってもかまわないわけですよ。中国ではきっと起こらなかったのでしょうけど。そういうのですけどね。ちょっと危ないかなとも思うのですが。ただ、そういうたとえば無償の行為、ほとんど意味をはこんでいなくて、まったくコンテクストフリーな、そういうマーキングとか、イメージ・メイキングの行為というのは、あったはずだというのですよ。
井上:洞窟が最初に線が引かれる場所地だったのかというようなことは、そこの人類学者たちの議論のなかで問題になってこないのですか。
岡田:きます。ただ、洞窟は考古学的に残るから。だから、それは人体であってもいいわけですよ、もちろん。ただ、これは残らないですね。身体はかなり早かったのではないでしょうか。身体のマーキングというのはすごい早いのではないですか。
井上:早いでしょうね。線が描かれる表面、線と表面の関係という問題は、とても気になるんです。世界を織りなすさまざまな表面のなかで、今は紙やカンヴァスの四角い表面が、ものが描かれる場所として特権化されているわけですが、その表面の原型を洞窟の壁に持ってくるのは、まちがいかもしれない。一つの出発点であるかもしれませんが、でも身体の表面というのは、もっと重要な気がする。最近の子供たちは、描く場としての身体の表面に回帰していて、手のひらにメモしたりしてますね。うちの子もやっています。(笑)日本でも、昔は四角い紙以外にいろいろなものに描いてましたよね。もっとも、そこには、絵としての線と、文字としての線のちがいもありますが。これは、デッサンという主題からずれていくのかもしれませんけど、現代美術では、カンヴァスに手書きで文字や数字を描いたりする。
岡田:アドルフ・ロースかなんかがタトゥーをすごい排斥しまして、ものすごく断罪するでしょう。身体に描くということをね。それも近代ですね。先ほどの井上さんのいう。そしてまたここにきて、タトゥー・ブームじゃないですか。(笑)なにかあるかなと思うんですけど。
井上:描く場所が限定されることで、描く行為が決まってくるわけですね。

デッサンの今後

上村:へんにまとめるみたいで悪いのですが。(笑)いま、描くということは、はたしてわれわれに必要なものでしょうか。いらないということでもけっこうなのですが。どうお思いでしょう。これは要するに、美術教育が製図家とか、職業芸術家をつくる以外にも、なにかわれわれに意味があるのかというような質問なのですが。
井上:僕はわりと伝統的な芸術観の持ち主なので、岡田先生にアホといわれるかもしれませんが、描くことはやはり絶対に必要だと思います。ふつう、目はものを見ていない。描くことではじめて見えてくるものがあって、目を日常的習慣から自由にするには、描くことが必要でしょう。それと、フィギュラティヴな想像力とか記憶力、コミュニケーションの力を養うにも、描く行為が役にたつ。美術の領域でいっても、たとえば阪神大震災のような事態になって、何もかもなくなったときでも、最低限、紙と鉛筆で何かできるということが、アーティストの条件だと思います。デッサン優位を疑問視した最初の話と矛盾するかもしれませんが、やはりドローイングというのは、先ほどのマーキングのことも絡んで、人間の非言語的な活動の中で、きわめて根源的で重要なものだと思っています。それは、何か超越論的な主体の内面とやらだけに関わるのではない。ただ、たぶん今、デッサンが問われるのは、西洋の伝統的なデッサンを基礎に置いた美術の全体が揺らいでいるからだと思います。
岡田:井上さんの先ほどのお話では、すでに前世紀のころから……。
井上:もちろんそうですが、今はそれに情報化とかマルチカルチャリズムとかが重なって、もう何がなんだか、めちゃくちゃになってきていますね。だからこそ、原点としてのドローイングが問われるのでしょう。一つ例をあげますと、最近、展覧会で沖縄によく行くのですが、そこの芸大に、東京芸大出の先生に交じって、ベルギー出身の先生がいます。彼は僕にいいました。「アキヒコ、ここでは石膏デッサンを美術の基礎として教えている。おかしいと思わないか。なぜ沖縄でギリシャ=ローマ彫刻のコピーをデッサンさせるのか。なぜそれが美術の基礎になるのか。」彼は、西洋のアカデミックな美術教育とちがうものを求めて日本に来たのに、極東の地にもそれがある。沖縄に来てもある。ちなみに彼は、東京芸大を出ています。(笑)これは、人事の問題でもあるのでしょうけど、文化的なアイデンティティの問題とかイメージ・メイキングの世界的な均質化とかいった、もっと大きな次元に関わる問題です。つまり、デッサン、ドローイングの問題は、美術の存在理由からはじまって、芸術の意味、文化全体のあり方にまでつながるアクチュアルな問題をはらんでいる。でもなぜか日本では積極的に議論が展開されない。だから、今回の企画はじつに意義深いと、持ち上げておきます。(笑)
加藤:もう見事にまとめられてしまった。(笑)
上村:言い残されたことがあればどうぞ。
加藤:ぼく自身はどちらかというと美術の専門家よりも非専門家への関心がいま非常に強いから、最初にデッサンの問題が出たときに、ぼくにはあまり関係ないのではないかというように聞いていました。でも、専門家だけではなくて、やはり非専門家のことも含めて、デッサンの問題というのは大きな意味をもっていますね。ひところピクチャレスクの問題がいろいろと議論されたことがありますが、素描の問題も、これに劣らず重要だと思います。具体的には、たとえば、先ほど井上くんがいった、なにもなくなってしまったらどうするかという問題が一つありますね。歴史的にいえば、写真の登場とか、筆記用具の変化の問題がいちばん大きいのだろうけど、写真とはちがったもののつかまえ方というのは、非常に興味深い枠のなかでとらえられるということが一つ。それからもう一つは、やはりマルチカルチュラリズムの問題です。ぼくはアフリカとかインドネシアとかのことを少し調べはじめたんだけど、なにをやっているかというと、先ほどの沖縄の先生とは逆というか、そこをちょっと意地悪くみています。つまり、逆説的かもしれませんが、アイデンティティ形成という点からみれば、ヨーロッパ的な美術教育がヨーロッパ人にとっての辺境で墨守されるのは、じつはよくあるあたりまえのことなのですね。もちろん、近代国家の形成やナショナル・アカデミーの問題を沖縄で考えることは、また別のむずかしさがあるかもしれませんが。だったら、たとえばセネガルでもいいし、どこでもいいのだけど、独立以後、つまり植民地の時代が終わって独立すると、ナショナル・アイデンティティをどうやって形成するかという問題に対して、いろいろな道筋が美術の世界でも考えられることになります。西洋から輸入した近代のアカデミー教育をやるのか、それとも伝統的なものに回帰すればよいのか、あるいはミッション系のワークショップ、つまり、一種の素朴な自然発生的な素描を芸術として高く評価する運動を継承するのか……。いろいろなそういう場面があって、そのつど素描の問題は大きくかかわってきます。その面で重要な問題だということですね。
井上:今のお話しにつなげて、先ほどのことを補足しますと、現代美術では、ドローイングも作品としてよく展覧会に出されますね。ロマン主義以降の芸術家神話が重なって、ドローイングほど作者の純粋な心の動きに近いものはないというわけで、もてはやされたりする。でも、ぼくは、あれはドローイングの姿をしたタブローの一種で、きわめて制度的なものだと思っているのです。美術というのは、展覧会を前提にしています。ですから展覧会向けに生産されるかぎり、それはすべて制度的な美術の内側にあって、日本語でいう素描の「素」なんて消えうせている。むしろ、そういう展覧会芸術の枠をはずれたところで、ドローイング、広い意味でのイメージ・メイキングの創造的なあり方を考えるべきではないでしょうか。
岡田:言い訳じみたことになるかもしれないんだけど、私の場合は、ちょうどそういう神話が、つまりディゼーニョの近代的な神話を誘発したルネッサンスの時代を研究しているものだから、よけいそういうかたちでは語りたくないと思っているところがあって、できるだけ相対化してみたいと思っているのですね。そう思ってきたから、ではそのときにどういう視点が、どのように考えていったらよいかなとずっと考えていて、制度論などでいくというのは一つの手だろうとは思うのですが。それでたとえば、イメージ・メイキングの問題とか、マーキングの問題というのを、たとえば人類学の人たちがどう考えているかとか、そういう他者の視点というのをどのように入れていくかというところがあるものですから、それで最初にああいうことをいってしまったのですが。まあ、そんなところです。
上村:どうもありがとうございました。 

(かとうてつひろ・関西学院大学教授/おかだあつし・京都大学教授/いのうえあきひこ・京都市立芸術大学助教授/うえむらひろし・本学。各氏の御好意により掲載。)