かつてアンドレ・マルローは「想像の美術館」という構想を語ったことがある。メディアや複製技術の発達によって、世界中の美術の名作・傑作を一箇所に集めることができるようになった。そこでは、たとえば写真を利用して誰でも第一級の美術品をいつでも鑑賞できるようになるだろうというような話である。 だが今日、マルローの言った「想像の美術館」は完全に過去のものとなりつつある。芸術作品のデジタル・データ化による画像データベースの発展は、あらゆる芸術作品の鑑賞をいつでもどこでも可能にしつつある。既にインターネットのウェブを通して、多くの美術館から無料でコレクションの画像を引きだすことができるようになっている。光ケーブルの普及や、ヴァーチュアル・リアリティ技術の発展によって、近い将来には本物と区別することができない解像度をもつ立体映像をいつでも引きだすことができるようになるだろう。つまり、世界中の美術館にある何百万、何千万の名作をまるでその絵の前に立っているかのように目の当たりにすることができるようになっていくかもしれない。自宅にいながらにして、たとえばルーブル美術館から、台湾の故宮博物館までを一挙に楽しむことができるようになるわけである。そうなれば、美術作品を見るという経験は、場所に限定されないだけではなく時間にも限定されないという状況が生まれてくることになるだろう。電子化=デジタル化がそのようなことを可能にしてくれた。夢の美術館はこのようにして近い将来に確実に実現されることになるだろう。 しかしながら、これは本当に「夢の美術館」になるのだろうか。単純に計算してみよう。一つの作品を観る時間を一分とする。すると、一時間で六十作品、一日で千四百四十作品、一ヶ月で四万三千二百作品、一年で約五十万作品、五十年で二千五百万作品を観ることができることになる。もちろん、美術作品を見るだけで一生を終えるわけにはいかないし、データベース化はほかの領域でもどんどん発展するであろうから、要するにわれわれは何千万、何億の数えきれない「芸術作品」や「文学作品」や「映像芸術」の巨大なライブラリに囲まれた未来を迎えるわけである。ところが、それに対してわれわれの生の時間の方は相変わらず二万日から三万日の間にすぎないのだ。 すぐに考えられるのは、こうした状況の下で人は美術作品に対する欲望や関心を失ってしまうのではないかということである。巨大な図書館の中に住んでいるようなものであり、いつでもアクセスできるという状況は、「別に今でなくてもいい」という感情を産み出すであろう。これは、「データベース化が知識を万人に開放する」といった類いの楽観的な未来予測が見逃している観点である。あらゆる情報にいつでもどこでもアクセスできる状態が実現されることと、人間の知識が拡大したり深められたりすることとは全く違う次元の出来事なのだ。第一、もしそうだとすれば世界一の知識人は図書館司書であるということになってしまうではないか。 だが、たとえそうだとしても、もしこのようなスーパーデータベースが完成すれば、現在の美術館の大半が不要になってましうであろうことも、また確かである。データベースは「夢の美術館」というよりも、「美術館」とは全く別の知識収蔵システムなのである。もちろん、「本物」に触れるというニーズは多少なりとも残るかもしれない。だが、完璧なヴァーチュアル・リアリティで、立体視も拡大もできる装置の方が、たとえば分厚いガラスケースと観光客の後ろ姿に阻まれて見る本物の「モナ・リザ」よりもずっといいというのも容易に想像できるだろう。遠くの美術館に行く必要がない、行っても仕方ないとすれば、美術館にもはや存在価値は残っていないと言えるのではないだろうか。 そう、もちろん「美術館」には固有の存在価値などはないのである。そんなものは、もともと存在していないのだ。言うまでもなく、美術館、あるいは博物館一般は「コレクション」のディスプレイの場所であった。それは、過去においては王家や貴族の富と権力の象徴であり、市民革命以降は、主を失った宮殿は「公共」の美術館や博物館に生まれ変わった。そこは「国民文化」の殿堂であり、この「国民」という抽象的な観念がかつての王や貴族の場所に外挿されたのである。 現在の美術館や博物館が代表し、防衛しているものとは何だろう。それは、国民だろうか? 「地球市民」としての「人類」なのだろうか? そしてあなたはそうした存在とぴったり重ね合わせる存在なのか? 歴史と伝統と美の殿堂としての美術館は一体どのようなイデオロギーによって支えられている空中楼閣なのだろうか。 とりあえず、それは現在の世界を支配する資本主義システムとは別の次元にあるものと考えられている。つまり、そこでは美術作品という特別なモノが、「商品」とは区別される別の次元にある価値をもつと捉えられており、人間の「自由な想像力」の存在証明の場所であると考えられている。だが、これらが幻想であることは、美術館の豪華な建物や設備と投入される税金や入場料の金額、あるいは誰も理解できないあまたの現代美術展を見ても明らかである。そうではないのだ。美術の価値を作り出しているものは、それが「美術」であるから、あるいは美術館はそれが美術館であるからという自己言及的な論理の中にしか存在していないのである。そのことは、もし美術館が失われてみた時に、社会の中で何が失われるかということを想像してみればわかるだろう。そして、近い将来において美術館はおそらく確実に消滅していく。 この講演の直前に、アフガニスタンにおけるイスラム原理主義勢力によるバーミアンの磨崖仏破壊が話題になった。それは、「人類全体の遺産」に対する冒涜行為として、世界各国からの抗議を受けた。だが、カンボジアのアンコール・ワットなどの古代遺跡の破壊の時に、あるいは第二次大戦で行われた都市破壊の時に、人々は同じ声を挙げただろうか。無害で安全な場所から、自分を「地球市民」の側において、その土地の住民にとっては有害な邪神像にすぎないものの破壊を嘆き、声高に非難するという「美的態度」こそが、普遍的な美の殿堂という美術館をめぐる幻想を作り上げてきたものの正体にほかならない。 近代において「芸術」は、美術館の壁にかけられた油絵をその基本的形態としていた。そして、美術館は空虚で広大な空間と、壁一面に配置される絵画との組み合わせによる特別な場所として、「国民」の「鏡」=殿堂として存在してきた。だが、情報社会における新しい技術やメディアはそのような「鏡」を徐々に不要なものにしていくであろう。 美術館はもはや古くなった空っぽの装置にすぎない。それは、航空機が中心となった太平洋戦争において、何の役にも立たなかった巨大戦艦大和のようなスクラップにすぎない。そして、それを支えてきたイデオロギーもまた空虚なものとなってきている。 だが、だからこそいま美術館の「廃物利用」を考えるべきなのだ。「場所」とは何か? 出会いとは何か? 経験とは何か? データベースに還元されない知識とは何か? すべての根拠を失った時に、初めて美術館は、それまでとは異なる新しい可能性を見出していくかもしれない。もちろん、それは美術館の「脱―美術館化」なしには達成されないことであるだろうが......。
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