連続講演会 美術館のポリティーク−過去・現在・未来
 「癒し」の場としての美術館は可能か
 2001年4月15日 於キャンパスプラザ京都 講義室
服部正 

 学芸員は出張の多い仕事である。作品の借用や返却、展覧会への出品交渉、作家や作品の調査などで各地の美術館や所蔵家のもとを訪れる。厄介なのは、その出張の途中に移動が多いことだ。本格的な調査研究ならともかく、作品の借用や返却などでは1日にいくつもの所蔵者を訪問することも少なくない。そのため、何日もの出張のあいだ毎日別のホテルに宿泊することになる。個性のないビジネスホテルの狭いユニットバス、毎朝繰り返される荷物のパッキング。これはかなりストレスがたまる状況である。「癒しの場としての美術館」というテーマではあるが、癒しを必要としているのは実は当の美術館スタッフなのかもしれない。わざわざ出張先のホテルに対する愚痴から話を始めたのは、先日ふと目にした雑誌の記事を思い出したからだ。さまざまなリゾートホテルを特集したその雑誌には、「癒し系ホテル」なる項目が設けてあり、その条件のひとつとして「時間を忘れてのんびりとくつろぐことができる」ことがあげられていた。
 たしかに、時間を忘れて何事かに没頭したり、時間が止まっているかのような錯覚に陥るようなのんびりした時間に身を委ねることは、多くの人にとって精神的な快であり、それは「癒し」につながるだろう。とすれば、時間の流れを忘れさせるような演出ができた時に、美術館も癒しの場となるのだろうか。しかしながら、時間を忘れるような場は万人に共有されるものではない。人と美術の関係は多様であり、ある人には快となる演出が必ずしも別の人の「癒し」につながるわけではない。こうして、わたしに与えられた冒頭の問いは行き場を失ってしまう。少なくともわたしには、残る紙数を尽くしても相応の答を導くことはできないだろう。
 では、経験豊富な先輩学芸員が数多くおられるなか、なぜわたしがこのテーマで話をすることになったのだろうか。おそらくそれは、わたしが障害をもつ人が作る作品と関わりをもち、彼らの作品を展示する展覧会を企画してきたからだろう。それ以外に、わたしのようなインチキ学芸員と他の多くの優秀な学芸員諸氏とを隔てる条件は思いつかない。それにしても、「障害」という語には、なぜいつも影のように「癒し」という言葉がつきまとうのだろうか。
 たしかに、近年の欧米の社会福祉の領域では、ヘルスケアにおける芸術の役割が重要視される傾向があり、老人や障害者の身体と心の「癒し」ために芸術は不可欠なものと考えられている。また、アウトサイダー・アートと呼ばれる領域においても、精神障害をもつ人が病院などの収容施設の中での作品制作をきっかけに、その障害が軽減されたという過去の事例は少なくない。しかしながら、それはあくまで障害をもつ人にとっての癒しであり、実は障害をもつ人にも、また芸術にも限らず、人にとっての趣味全般がそのような性質をもつものである。話を芸術に限定することなく、わたしがテレビでのフットボール観戦に我を忘れる瞬間も、わたしという表面的、慣習的な意味での「非障害者」がフットボールという「非芸術」によって「癒し」を与えられる場である。しかし、スポーツについても、ヘルスケアとの関係で語られるのは障害者の乗馬訓練や高齢者のゲートボールばかりで、学芸員のスポーツ観戦には「癒し」という壮大な言葉が割り振られる余地はない。結局のところ、「障害」と「癒し」というふたつの言葉が親和性を持つのは、「障害者は癒しを求めている」という社会的な一般概念の所産に過ぎないのである。
 障害をもつ人には「癒し」が必要であるという通念が「障害」と「癒し」を結びつけているのであれば、彼らに対する心理的なバリアがきわめて高い社会装置であるところの美術館は、むしろ「癒し」とは無縁の存在であろう。障害者と「癒し」のつながりという通念で呼び出されたわたしではあるが、ここまで梯子を昇ったところで巧妙に問題がすり替えられ、話は美術館とその利用者である「非障害者」の間での「癒し」の可能性へと至るのである。しかし、それはある意味で正当なことかもしれない。なぜなら、わたしが障害をもつ人の作品を展示するとき、その鑑賞者として想定しているのは決して障害をもつ人だけではなく、美術館を訪れる市民一般なのだから。わたしは、障害をもつ人に「癒し」を与えるために展覧会を企画したのではなく、純粋に彼/女らの制作する作品に興味を持ったからであり、その作品が人々の心を打つだろうと信じるからである。
 1999年にわたしがチーフキュレーターとして関わった東京都美術館での展覧会「このアートで元気になる エイブル・アート99」に、このような一風変わったタイトルをつけたのもそのためだ。通常の展覧会では、展示されている内容を示すようなタイトルをつけるのが普通である。だがわたしは、障害をもつ人の作品を何らかの美辞で修飾したり、その特異性を強調するような名前をつけることで作品を囲い込むことはどうしても避けたかった。むしろ、展覧会を見た人たちが彼/女らの作品から何を感じるのか、そこを問題としたかったのだ。展覧会に対するある評論で「元気になっている場合ではない」というものがあったが、まさにその通りで、元気になっても悲しくなってもいい、作品を見ることで心になんらかのさざ波が起こる、その作用こそを重視したかった。障害をもつ人の作品に限らず、美術作品を通して起こる心のさざ波、その波に身を委ねることが精神的な快ではないかと考えたからだ。その意味では、先に触れた雑誌が言うところの「癒し系」展覧会を、わたしは目指していたのかもしれない。
 展覧会の準備段階で、障害をもつアーティストたちと多く接していると、「障害」とは社会を支配する力によって作り出されたものであるということを強く感じる。それは、力の中心を基準とする多数決の論理である。もし見えない人が大多数で、世間に流通する印刷物や標示物がすべて点字で書かれていたら、墨字しか読めない「晴眼者!」のわたしは「障害者」である。背の高い人や花粉症の人が「障害者」と呼ばれないのは、生産性という支配者の論理とそれほど大きな齟齬を生じないからにすぎない。
 ところが、芸術という視点は、その生産性の論理をすり抜けるための余地を、わずかながら残している。自閉症と呼ばれる八島孝一は、通常なら半時間あれば足りる作業所への道のりをたっぷり二時間以上かけて通勤する。その途中で、道端やベンチの下などからお気に入りの物(その多くは、一般的には取るに足りないと思われているような壊れた機械の部品や、食品のパッケージである)を丹念に吟味して拾い集め、それを粘着テープで執拗につなぎ合わせたオブジェを制作している。社会的には、彼のその行為は「問題行動」と呼ばれている。しかしわたしから見れば、それは今や生産性の網に絡め取られた美術の世界において、まれにしか目にすることができない強烈な表現への衝動の発露である。いったい、効率化、生産性に囚われたわたしたちのなかで、八島孝一ほど優雅な通勤時間を過ごしている人がどれほどいるだろう。わたしたちが「障害」という枠に閉じこめてきた人たちの表現行為のなかには、わたしたちがより豊かに生きるためのヒントがちりばめられている。
 わたしが障害をもつ人の作品を展示するのは、彼/女らの作品や、彼/女らの表現行為を通じて見える生き方が、鑑賞者の心に豊かなさざ波を起こすことを期待しているからだ。大学のような研究機関で美術と関わるということは、作品そのものについての真理や史実を追求することなのかもしれない。しかし、美術館の主役は人間であり、美術館にとって美術作品は、人と人(それは鑑賞者同士であったり鑑賞者と作者だったりする)をつなぐためのきっかけにすぎない。人の心にさざ波が起こり、その波が人と人の会話を呼ぶ。そのような生きた血が通うことによって、はじめて美術館は機能するのである。市民社会のなかで生きている美術館にとって当然ともいえるそのことに対して、多くの場合研究機関の出身者で占められる美術館の関係者は、いままであまりに不誠実だったのではないだろうか。
 昨年わたしが企画した鑑賞者参加型の作品展に対して、ある美術評論家から「遊園地にすぎない」といった主旨の批判を受けた。インチキな学芸員のわたしは、「遊園地で結構!」と思う。「遊園地」だからこそ、小学生が友だち同士で朝からやってきて貴重な夏休みの半日を美術館ですごしてくれたのだし、幼児を連れたお母さんのたまり場になることもできたのだ。冒頭の問いに対して、インチキなわたしはやはり答えを用意できなかった。可能かと問われれば、わからないとしか答えようがない。ただはっきりしているのは、美術館がこれまでの態度を改めないのならば、絶対に不可能であるということだ。そのためにも、わたし自身はこのような場でもったいぶって話をするのではなく、実際の美術館での活動のなかで答えを探していかなければならないのだろうと思う。