今月の一冊:梅原賢一郎『カミの現象学―身体から見た日本文化論―』 角川書店、2003年

カテゴリー: 『雲母』について |投稿日: 2011年8月20日

梅原賢一郎(芸術学コース教員)

 滝田洋二郎監督の『おくりびと』が、米アカデミー賞外国語映画賞を受賞したことは、まだ記憶に新しいことです。葬儀のとくに「納棺の儀」を執行する、納棺師を描いた作品でした(観られたかたもたくさんおられると思います)。
 映画に関連して、ある宗教人類学者が、NHKの番組で、次のようなことをいっていました。
 いまは歴史的な不況の時代だ。この時代にこそ見えてくるものがある。「セーフティー・ネット」ということだ。一般に、それは、失業などをした場合の救済システムのことを意味するが、ここでは、もっと根底的な「セーフティー・ネット」のことをあえて主張したい。どういうことかというと、たとえ、救済システムという意味での、多分に政治的な「安全網」にひっかからなかったとしても、まだそのしたに、もうひとつの「安全網」がありはしないかということだ。この映画(『おくりびと』)はまさにそれを描いている。すなわち、もうひとつの「安全網(セーフティー・ネット)」とは、簡単にいえば、死をむかえるとき、みなが安心して死にうるという、死の文化的な作法のことだ。物質的にかならずしも豊かな社会ではないにしても、その意味での「セーフティー・ネット」さえしっかりしていれば、それはなにものにもかえがたいことではないか。不況の時代、だれかれとなく、いつなんどき、死と直面するやもしれない時代、この「セーフティー・ネット」の存在意義はいよいよ大きい。拝金主義と物質主義によって曇らされていたであろうそれを、不況の時代だからこそ、見直すチャンスではないか。
『カミの現象学』も、この究極の「セーフティー・ネット」を模索した本だということができます。具体的には、地域の祭りや宗教的儀礼のなかに、それを探し求めることでした。そして、それは同時に、みずからの身体のうちに、眠っていた死の作法をとりもどすことでもありました。
 6 月に開講するスクーリング「芸術研究5(祭礼と感性)」は、『カミの現象学』にそって、お話しします。こんなのもあったのかと思われるような祭りの映像もたくさん用意しています。興味のある方はこぞってご参加ください。

*記事初出:『雲母』2009年5月号(2009年4月25日発行)


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