プラド美術館展

カテゴリー: お知らせ美術館・展覧会情報 |投稿日: 2018年7月1日

加藤志織(教員)

(国立西洋美術館 正面入口横)

(国立西洋美術館 正面入口横)


 日本とスペインが外交関係を樹立して150周年になることを記念するプラド美術館展—ベラスケスと絵画の栄光—が、上野にある国立西洋美術館で今年の春に開催された。この特別展示の目玉は、副題に示されているようにディエゴ・ベラスケス(1599〜1660)の名作7点である。

 このスペイン画家の名は長い歴史をもつ西洋美術史のなかでも指折りの大家として知られている。それをわたしが明確に意識したのは、おそらく10代後半の時に見た、映画界の巨匠ジャン=リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」(1965)の冒頭で、主演を務めるジャン=ポール・ベルモンドが、フランスの高名な美術史家であるエリー・フォール(1873〜1937)がものしたベラスケスについての記述を朗読する場面であったと思う。
 なぜ映画の序盤で唐突に過去(しかもスペイン)の画家に関する言及が始まるのか、彼の絵画の見所や価値は言うまでもなく、映画全体の意味をも含めて、当時のわたしにはよくわからなかった。西洋の古い美術に特別な興味をもっていなかったこともあり、そのままベラスケスという名前だけが記憶へと残り、再び思い出すのはフランスの思想家ミシェル・フーコーの記念碑的な名著『言葉と物』のページをめくり、ベラスケスの名を目にした時であった。そのなかで、あの傑作《ラス・メニーナス》(「侍女たち」の意味/1656/プラド美術館)が取り上げられているからだ。
 この時から、ベラスケス、そして彼の代表作と言ってもいい同作品に対する興味が本格的にめばえた。その後、西洋美術史を大学で学ぶことになったが、専攻したのがイタリアのルネサンス芸術だったこともあり、ベラスケスの実作品、とりわけ《ラス・メニーナス》の実物を鑑賞できたのは、さらに後になってプラド美術館を訪れた際のことである。
 かつて世界帝国であったスペインが誇る同美術館には必ず見なければならない芸術作品が山のようにあるため、とりあえずガイドブックに従って館内を歩き、その絵画の前に立った時のことを、あれからずいぶん時間が経過した今でも忘れることができない。
 正直、一目見れば生涯忘れ得ぬ強烈な衝撃を受けるだろうと期待していた。名作にしかないオーラに包まれていると考えていた。類い稀なるテクニックによって生み出される重厚な画面構成が見られると信じていた。しかし、実際に受けた印象は、そうした期待とはまったく別ものであった。実物の《ラス・メニーナス》は意外なことに薄塗りで、画面からは重厚感や奥行き感をあまり感じられなかったからである。思いが強過ぎるがゆえに、鑑賞時に拍子抜けすることはある。その場では、そう考えて隣の展示室へと移動した。
 この経験以後も、ヨーロッパの美術館の常設展示あるいは日本国内で開催されたいくつかの企画展示で、複数のベラスケス作品を見る機会に恵まれた。だが、プラド美術館で生じたような残念な出会いは幸運なことに起こらず、《ラス・メニーナス》を見た際の違和感はいつしか脇に追いやられ、わたしにとってベラスケスは、流麗な筆致によって事物の質感や形態を自在に表現するオールド・マスターとなった。そして、このスペイン画家が評価される理由にかんしても、なんとなく理解したような気になっていたのである。
 しかし、今回、国立西洋美術館のプラド美術館展を訪れて、展示されている《フアン・マルティネス・モンタニェ—スの肖像》(1635頃/プラド美術館)、《バリェーカスの少年》(1635-45/プラド美術館)、《王太子バルタサール・カルロス騎馬像》(1635頃/プラド美術館)、《マルス》(1638/プラド美術館)を見て、再び奇妙な感覚に捕らわれた。どのように表現すればよいのか難しいが、まるでピントをわざとずらすことで輪郭をぼかしたような表現に強く惹かれると同時に違和感を覚えたのだ。
 こうした描き方をした画家の意図は美術史的にはある程度説明されている。それは絵のサイズと関係する。これら4点はいずれも大画面であるために、当然、絵を鑑賞するためにはそれなりに離れなければならない。要するに、その際に適正な「像」が出来すれば良い訳で、そのために画家はソフトフォーカス的な描写を意図的に試みたというのがその回答である。
 考えてみれば、ベラスケスは、16世紀のヴェネツィアで活躍したイタリア・ルネサンスの画家ティツィアーノの影響を受けている。このヴェネツィア派の巨星は、油彩画技法における顔料の厚塗りと筆触の効果を追求した人物であった。その表現上の効果を学び、さらに深化させたのが件の曖昧な輪郭の描き方なのだ。
 なるほど、これは合理的な解説である。しかし、わたしには、絵画においてとくに重要視され、明確な表現が求められる人物の顔(とくに目)がおぼろげなタッチで描かれ、それにぼんやりとした影までつけられていることに対して、この通説が十分に答えているようには思えない。今回展示されている《東方三博士の礼拝》(1619/プラド美術館)のようなベラスケスの初期作品を見れば明瞭であるが、彼は事物の形態や質感を写し取る才に長けていた。細密な描写を追求することで、実物の存在感を克明に表現するという選択肢もあったはずである。それなのに、なぜ、輪郭をぼんやりと描く技法を用いたのか、その謎は残されたままである。プラド美術館展を見て、ベラスケスの画家としての大きさを痛感するとともに、その謎の深さに驚き、魅入られた。
 ベラスケスの出展作品は、《東方三博士の礼拝》(1619/プラド美術館)、《フアン・マルティネス・モンタニェ—スの肖像》(1635頃/プラド美術館)、《バリェーカスの少年》(1635-45/プラド美術館)、《王太子バルタサール・カルロス騎馬像》(1635頃/プラド美術館)、《マルス》(1638/プラド美術館)、《メニッポス》(1638頃/プラド美術館)、《狩猟服姿のフェリペ4世》(1632-34/プラド美術館)。
 その他にも、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの《音楽にくつろぐヴィーナス》(1550頃/プラド美術館)、アンソニー・ヴァン・ダイクの《レガネース侯爵ディエゴ・フェリペ・デ・グスマン》(1634頃/国立西洋美術館/東京会場のみ展示)、ペーテル・パウル・ルーベンスの工房作《泣く哲学者ヘラクレイトス》(1636-38/プラド美術館)、フランシスコ・デ・スルバランの《磔刑のキリストと画家》(1650頃/プラド美術館)、バルトロメ・エステバン・ムリーリョの《小鳥のいる聖家族》(1650頃/プラド美術館)など、傑作を間近で見学できる。国立西洋美術館での展示は5月27日に終了したが、6月13日からは兵庫県立美術館で公開中。


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