田島恵美子(芸術学コース教員)

造形の本 ※筆写所有の造形に関する本、左は以前の通信教育部テキストです。右はおもしろかったので参考までに。

 7月に入り夏の到来を実感する今日この頃、みなさま、いかがお過ごしでしょうか。今回は、通信教育課程の補助教材『雲母』6,7月号コラムで簡単にご紹介した作品の見方に関連して、「よく見る」ということについて述べてみたいと思います。コラムでは、まずは自由に見ること、その上で内容と造形、2つの観点から見ることについて述べましたが、特に造形に着目した見方について、以前の『雲母』コラム(2021年2月号)で少し具体的に書いておりましたので、少し手を加えたものを改めて掲載いたします。

田島恵美子(芸術学コース教員)

 芸術学コースのみなさま、2021年となりました。いつもとは異なるお正月を迎えた方も多いのではないでしょうか。もうしばらく不自由な状態が続きそうですが、今できることに目を向けて、少しでも有意義に過ごしましょう。  例えば、家で過ごす時間で、お手持ちの画集やインターネットを利用した作品鑑賞はいかがでしょうか。特に解像度の高い図版は拡大してみることで細部の描写まで確認できる点において有用です。今回は、このような鑑賞に適した、細緻な描写を特徴とする17世紀オランダ・北方の静物画を2点、ご紹介したいと思います。

コルネーリス・デ・ヘーム 《朝食図》 1660-69年頃 油彩・オーク板 34×41.5㎝ ウィーン美術史美術館 ( https://www.khm.at/objektdb/detail/895/?offset=1&lv=list )

コルネーリス・デ・ヘーム 《朝食図》1660-69年頃 油彩・オーク板 34×41.5㎝ ウィーン美術史美術館https://www.khm.at/objektdb/detail/895/?offset=1&lv=list

 この目にも鮮やかな作品は、日中にとる軽い食事を描いたもので、食卓の静物画あるいは朝食の静物画とよばれます※1。17世紀のオランダでは、多くの食卓画が絵画市場で売られ、家庭の控えの間や応接室、食堂や台所に飾られていました※2

拈華微笑2018(1):学びの方法論

カテゴリー: お知らせ |投稿日:2018年7月1日

田島恵美子(教員)  皆さんの中には、働きながら学ばれている方も多いと思います。中には、「社会人になってもまだ勉強しているの。すごいね。」さらに美術や芸術関係の勉強をしていると答えたなら、「勉強してどうするの? 何か資格でも? 」つまり、何の役に立つの? といったニュアンスを含む質問が返ってくる、といった経験をされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

田島恵美子(教員)  『キュッパのはくぶつかん』という絵本をご存じですか?  キャラクターグッズが販売されていたり、数年前にはこの絵本をきっかけとした企画展*もあり、すでに読まれた方もいらっしゃるかもしれませんね。キュッパという丸太の男の子が主人公の絵本ですが、ちびっこ向けと侮るなかれ、芸術を学ぶ人にとって、なかなか意味深い、示唆的なお話となっています。

拈華微笑2016(4):記憶の方法

カテゴリー: 『雲母』について |投稿日:2016年7月25日

田島恵美子(教員)  日々の学習の中で、ちゃんと勉強したのになかなか記憶として定着しない、読んだ本の内容をよく覚えていないといった経験はないでしょうか。実際、私自身が痛感していることであり、限られた時間で研究を進めていく上で、何度ももどかしい思いをしています。  そんな中で、参考文献として瞑想や記憶術の本に目を通す機会があり、記憶とその方法について考えさせられるとともに、改めて自身の勉強の方法を見直す機会ともなりました。そのことについて、簡単ですが述べてみたいと思います。

田島恵美子(教員)  ヴァチカンといえば、言わずと知れたカトリック教会の総本山であり、数々の美術品でも有名ですが、装飾写本をはじめ歴史、法律、哲学、科学および神学に関する貴重な文献や古文書、印刷本など100万冊以上の歴史的図書※1を所蔵する世界有数の図書館も有しています。  その貴重な蔵書を展示した「ヴァチカン教皇庁図書館展Ⅱ―書物がひらくルネサンス」が、今年4月末~7月半ばにかけて印刷博物館にて開催されました。写本から印刷本への変遷を紹介した2002年の第1回※2に続くこの企画展では、〈書物〉と〈ルネサンス〉をキーワードに、中世写本、初期刊本、地図や書簡類などヴァチカンが所蔵する21点と、国内の諸機関が所蔵する書物を加えた計69点が展示されていました。  

拈華微笑2015(4):「ニセモノ」再考

カテゴリー: 『雲母』について |投稿日:2015年7月26日

田島恵美子(教員)

 「ニセモノ」と聞くと、なんとなく、劣ったもの、残念なものといったイメージをもってしまうのではないでしょうか。ひとつには、「素晴らしいホンモノ」に対する「劣ったニセモノ」という見方を無意識のうちに前提としていることがあるでしょう。確かに、その存在は「ホンモノ」との関係性において成り立ちますが、それは単なる二項対立的な捉え方だけでは説明できない複雑さを孕んでいます。