「Lo Gai Saber」へようこそ!
…「Lo Gai Saber|愉快な知識」は、京都芸術大学芸術学部通信教育部の「芸術学コース研究室」 が運営しています。芸術学について学ぶ学生の皆さんに向け、学習に役立つ様々な情報を発信しています。

古典という「根」

カテゴリー: お知らせ愉快な知識への誘い |投稿日:2018年6月9日

佐藤真理恵(教員)  はじめまして。今回はご挨拶代わりに、私の専門分野である西洋古典学(古代ギリシア)と絡めたお話をしたいと思います。  といっても、西洋古典学では主に古代の文献や史料を扱うため、一見、芸術学とは関係がないと思われるかもしれません。しかし、西洋の芸術にふれるとき、好意的にせよ批判的にせよ、そこに古代ギリシアや古代ローマの影響がみとめられない作品などおよそ皆無といっても過言ではありません。この物言いは、欧米の高等教育において長らく権威として君臨してきた(現在ではそれも黄昏を迎えていますが)古典学の思い上がりでしょうか。

池野絢子(教員)

ロヴェレート近現代美術館、2016年

ロヴェレート近現代美術館、2016年

 余計なもののない広々とした空間に、真っ白な壁。そこに絵画が一枚一枚、同じ高さに、適度な間隔を保って掛けられている。ギャラリーや美術館に通う人ならお馴染みの、いわゆる「ホワイト・キューブ」である。

金子典正(教員)  会期が残りわずかとなりましたが、上野の東京国立博物館では「特別展 仁和寺と御室派のみほとけ」が3月11日(日)まで開催されています。ツイッター「芸術学コースのつぶやき」でも少し書きましたが、今回の展覧会は仁和寺の至宝はもちろんのこと、全国の御室派の寺院のみほとけが大集合しており、大変見ごたえのある内容となっています。とりわけ大阪葛井寺千手観音像、兵庫神呪寺如意輪観音像、福井中山寺馬頭観音像など、秘仏として大切に伝えられてきた数々のみほとけが信じられないほど間近でじっくり拝見できることは大変有難い機会です。こうした充実した展覧会をみるたびに、大切なご本尊の出開帳をお許しくださったお寺さま、展覧会開催に至るまでの学芸員さんたちの苦労がひしひしと伝わってきて、改めてものすごいスケールの展覧会だと感じました。 仁和寺と御室派のみほとけ

梅原賢一郎(教員)

2001年9月11日の忌々しい事件の数日後、わたしはある山の頂上にいた。古くから、旧暦の8月1日に、この山の信仰エリアの人たちが、集団で登攀する風習がある。そう、わたしは、「お岩木さん」、本州の北端、津軽の地に〈おわします〉岩木山の頂上にいたのである。もちろん、年に一度の集団登攀の行事(「お山参詣」)に、参加していたのだった。 前日、麓の岩木山神社の広場で、笛や太鼓や鉦の囃子に合わせて、老若男女が、手足を跳ねて、踊っていた。踊り狂っていたといってもいい。とくに、老人の姿が印象的だった。一心不乱に、空が白みはじめるまで、恍惚として、踊り呆けていた。 そして、時折、雲間から、月明かりに照らされて、偉容を見せる「お岩木さん」も圧倒的だった。ああ、あれが、あまたの恵みをもたらす、神がごとき「お岩木さん」……。踊りの囃子に煽られながら、目がとらえた神秘の映像は、脳裏に焼きついて、いまだに離れない。

図1

……、いま、山頂にいる。集団登攀の仲間にまじって、闇のなか、「ご来光」を待っている。いまかいまかと。みなも、思い思いに、石のうえなどに腰をおろし、一様に、太陽の昇ってくるであろう方向に顔をむけている。だが、その日は、東雲の空は曇ったままで、あいにく、「ご来光」を確認することはできなかった。しかし、そんなことよりもなによりも、わたしの内面は不安に押しつぶされそうになりながら、必死に、曖昧な頭脳をめぐらそうとしていた。 あのおぞましい映像を目にした直後から、またどこかで同様のことが起こるのではないか、日本でも、東京でも。世界中が戦争の嵐に巻きこまれるのではないか。わたしは経験したことのない(身に覚えのない)不安に苛まれていた。 そして、同時に、なんだか不思議だった。こうして、ユーラシア大陸の東端の島国の、そのメインランド(本州)の北端の、コニーデ式の美しい山の頂上で、太陽を仰ごうとしている。ここは、なにごともなかったかのように、まったく静かで、人たちは、おなじように幾年もくりかえされたであろうように、「ご来光」を待ちのぞんでいる。 どうして、わたしはここにいるのか。いったい、いることの意味はあるのか。あるとすれば、それはなにか。ここに登ってこれない人はいるのか。登ることを拒絶される人はいるのか。いや、どんな僧衣を纏っていようとも、どんな法衣に包まれていようとも、「お岩木さん」が拒むことはないはずだ。それどころか、「お岩木さん」は歓迎するにちがいない。あてのない想念が八方に飛びちり、わたしの内面は虚しさでいっぱいだった。

図2

わたしは、若い頃から、祭りに魅せられて、全国各地を回っていた。そのなかでも、よく通った祭りの一つに、「遠山の霜月祭り」がある。南信濃の山間の、谷筋を流れる川沿いの、狭隘な土地のあちこちで、12月の初旬、おなじような「お湯の祭り」が執りおこなわれる。宮崎駿の、湯屋が舞台の映画作品、『千と千尋の神隠し』のモデルになったともいわれているが、土地の人たちはそんなことには無頓着で、ただ、伝えられた祭りを、おなじように幾年もくりかえし、おこなっているにすぎない。 ところで、「遠山の霜月祭り」では、全国の一宮をはじめ、津々浦々の神々が招待され、お湯でもって饗応されるわけであるが、もちろん、近隣のインティメートな神霊たちも招集され、お湯が献上される。要するに、お湯でもってあまたの神々を清め、英気を養っていただくのである。ただし、一括して、漠然と、神々にお湯が献上されるのではない。そこのところは、じつに、細やかで、神々の名簿ともいうべき「神名帳」に記載された神の名が読みあげられ、あるいは、歌の詞章のなかに神の名が挿さまれ、一々、丁寧に、神々が招喚される。 さて、9・11の年のことであったか、ちょっとあとの年のことであったか、ある地区の祭りに参加していたときのことである。夜の帳がおりてはじまった祭りもたけなわ、眠い、寒い、煙いで、意識も曖昧になってきたころ、たしかに、聞こえてきた。そう、一通りの神々の名のあとに、仏教者の名もつづいて聞こえてきた。釈迦牟尼仏、弘法大師、伝教大師、法然上人、親鸞上人、道元禅師という具合に。ああ、これが神仏習合ということなのかと一瞬にして納得させられるものがあったが、それも束の間、わたしの想念はさらに遠くへと飛んでいた。ここに、異貌の神々の名があったとしても……と。

祭りのけっして排他的ではない宗教的土壌は、いったい、なにであろうか。なにに由来するのであろうか。考えれば考えるほどわからなくもなるが、考えてみなければならない問題ではある。

図3

文明の哲学を考えるうえで、なおざりにできない出来事を、9・11のほかに、もう一つあげるとすれば、それは、やはり、2011年の3・11であろう。なかでも、人為ではどうすることもできない地震や津波はおくとして、問題は、自然災害が誘発した原発事故である。いったい、人類文明は、作ってはいけないものまで作ってしまったのであろうか。「自然災害でもなく、人災でもなく、文明災である」と、原発事故について述べた哲学者がいたが、はたして、人類文明は、その巨大な廃棄物が、自然環境のなかで容易には循環できないものまで、つまり、作ってはならないものまで、作ってしまったというべきなのであろうか。歯止めのない科学技術の発展がもたらした、核兵器や原子力の問題も、あらためて、考え直さなければならない。

以上のような、突発的なカタストロフ(破局)が引き金となって、考えさせられる問題のことはさておき、わたしは、日頃から、ユーラシア大陸の東端の島国で、以下のようなことを考えていた。

わたしは、若い頃から、ヨーロッパの哲学をいろいろと学んできたが、やがて、次のように考えるようになった。アリストテレスを読んでいても、アウグスティヌスを読んでいても、デカルトを読んでいても、ニーチェを読んでいても、それぞれの哲学の様相はちがうが、彼らが依拠する根本的な論理(ロゴス)は共通しているのではないかと。 第一に、彼らがいう「ある」とはなにか。パルメニデスは「あるものはある、ないものはない」といったといわれるが、彼らにとって、「ある」は百あり、「ない」は零である。つまり、事物は「ある」か「ない」かのどちらかであり、どちらかでないものはないのである。これは、いいようによっては、事物に「ある」か「ない」かを強要することにほかならない。 彼らとはちがって、わたしは、次のように謳う人も知っている。「陽炎に等しいのに、世界が存在する、あるいは存在しない、と固執する人には、迷妄がある」(ナーガールジュナ)と。これは、ものの真相に「ある」とか「ない」とかを割り当てることはできないということである。逆にいえば、「ある」と「ない」とで割り切った途端に、世界は変質してしまうということである。 また、「ある」か「ない」かであれば、当然、〈「ある」かつ「ない」〉は成立しないことになる。しかし、わたしは、そのようなこともおかまいなしに、次のように話す人も知っている。「やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり」(道元)と。 ユーラシア大陸の東端の島国で、わたしが思うことは、ただ、次のことである。なにかものを考えるときに依拠すべき根本的な論理(ロゴス)、いわば、論理(ロゴス)の母胎のようなもの、それは、地球上に、一つしかないのではないということ。だれしもがそれに依拠して思考すべき絶対的な論理(ロゴス)などというものはないということ。すくなくとも、ユーラシア大陸の東端の島国でものを考えるわたしには、依拠すべき根本的な論理(ロゴス)が二重にあるということ。あるいは、多重にあるかもしれないということ。そのことが、標準化(一元化)のいきすぎた地球には、いま、重要ではないかということである。

また、意識というようなものを考えてみよう。ヨーロッパの哲学は、やはり、意識の哲学ということができる。アウグスティヌスの『告白』を読んでいると、神を、神の似姿である自身の内面に、とことん、見いだそうとしていくが、それは、自身の内面の意識化であろうし、その徹底した作業には、ただただ、驚嘆するしかないのである。デカルトのコギト(考える我)は、もちろん、意識に明瞭にとらえられるものであろう。ニーチェが、永劫回帰の思想を開陳し、忌々しい「かつてそうであった」を「そうであったことを欲した」につくりかえようとするとき、それは、比類ない意志の表明であろうが、その意志は、やはり、意識のなかで、遂行されるのであろう。そして、このように、ヨーロッパの哲学が概して意識の哲学であるということも、その依拠すべき「論理(ロゴス)の母胎」に関係しているのだと思われる。 しかし、ユーラシア大陸の東端の島国で、わたしは、むしろ、意識よりも、無意識の哲学のあることを知っている(唯識の哲学など)。そして、たとえば、悪は、アウグスティヌスにとって、人間の自由意志(それはたぶんに意識化されているものであろう)がなすものであったが、きっぱりと、次のように言う人を知っている。「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず、また害せじと思ふとも、百人・千人をころすこともあるべし」(親鸞)と。とりあえずは、悪は、人間の意識の範疇をこえているということであろう。 いずれにしても、すくなくとも、わたしには、依拠すべき「論理(ロゴス)の母胎」が、二重にあるのである。

言葉というものをとりあげてみても、どうであろうか。「初めに言葉があった、そしてその言葉は神とともにあった、そして言葉は神であった」(ヨハネ福音書)と「縁起という真理にあっては、日常の言語活動が止滅している」(ナーガールジュナ)とのあいだには大きな懸隔があるといわなければならない。言葉のメタレヴェルを問いながら、たえず自己撞着に曝されてあるような、言葉の危険な綱渡りともいうべき禅の公案(禅問答)も、もちろん、後者の命脈のなかでしかと息づいているのである。

図4

以上、2018年を迎えての、感懐である。 ぺらぺらとおしゃべりをしつづけるのではなく、いちど、立ちどまって、考えてみてはどうであろうか。そう、考えることを考えてみてはどうであろうか。

三上美和(教員) 横山大観展―東京画壇の精鋭―  皆さん、こんにちは。三上です。寒い日が続いていますが、お変わりございませんか。早いもので、1月も終わりですね。  今回は山種美術館の「横山大観展―東京画壇の精鋭―」(2月25日まで)を紹介します。今年は大観生誕150年に当たり、それを記念した展覧会です。

加藤志織(教員)

 世界三大美術館の一つに挙げられることもあるエルミタージュ美術館の貴重なコレクションの一部を展示する企画展が、2017年の春から日本を巡回中です。まず3月中旬の東京を皮切りに、7月からは名古屋の愛知県美術館、そして10月からは兵庫県立美術館に移動して現在公開されている。その大エルミタージュ美術館展について紹介します。

神宮御神宝の美

カテゴリー: お知らせ愉快な知識への誘い美術館・展覧会情報 |投稿日:2017年11月26日

比企貴之(教員)  伊勢神宮では、20年に一度、正殿はじめ諸殿舎を新たに造替するとともに、殿内に奉納される装束・神宝などにいたるまでを調進し、新宮に神霊を遷す一大事業がおこなわれる。これを式年遷宮と称す(「式」はさだめの意。「式年」で定めの年の意)。初めて催行されたのは、内宮が持統天皇4年(690)・外宮がその翌々年というから、いまから1,300年余りも昔のことである。以来、先頃2013年(平成25)の催行まで、中世の室町時代に120年ほどの途絶はあったものの、62回を数えている。

熊倉一紗(教員)

みなさんは、ふだん、レポートの準備や授業の予習・復習のため、もしくは小説などを読むため、本を手に取ることは多いと思います。その場合、たいてい「中身」を読むことに集中し、本そのもののデザインに注目することは、あまりないでしょう。しかし、1冊の本には、私たちの感覚を刺激する魅力がたくさん詰まっています。そのことをあらためて思い起こさせてくれたのが、京都dddギャラリーで開催の「平野甲賀と晶文社展」(会期:9月14日〜10月24日)でした。

京都dddギャラリーは、グラフィックデザインを中心に展覧会を企画・展示している数少ない施設(観覧料は無料!)で、大日本印刷株式会社(DNP)が運営しています。この京都dddギャラリーで先日まで開催していたのが「平野甲賀と晶文社展」でした。平野甲賀という名前は知らなくても、カッサンドルのポスターがあしらわれた沢木耕太郎『深夜特急』の装丁家といえばわかる、という方もいらっしゃるかもしれません。

梅原 賢一郎(教員)  道元の『正法眼蔵』は難解な仏教書の定番とされている。しかし、どの点で難解であるのか、じゅうぶんに吟味もされずに、イメージが先行している感がないわけではない。難解さは、境地の深さにあるのか、論理性に問題があるのか、文字の法外な配置にあるのか、などと、丁寧に検討していくと、案外、読めていけるのではないかと、わたしは思っている。そして、そうして読みすすめていくと、『正法眼蔵』は、たんに宗教書というにとどまらず、なんと含蓄のある、おもしろい書物だとも思うのである。  たとえば、わたしは、次の文を読んだとき、思わず、クスッと笑ってしまった。

あの秘仏が展覧会へ:仁和寺の北院薬師さま

カテゴリー: 未分類 |投稿日:2017年9月18日

金子典正(教員)  毎年10月上旬になると学科共通科目「文化芸術遺産フィールドワーク2」で京都市北西部の古刹として名高い仁和寺、法金剛院、高雄の神護寺、栂尾の高山寺を訪れています。