梅原賢一郎(教員) 5月1日をもって元号がかわり、10月22日には新天皇の「即位の礼」が、11月14日には「大嘗祭」がとりおこなわれることになっている。皇位の継承を国の内外に示す、国事行為(内閣の助言と承認を必要とする)である「即位の礼」とはちがって、皇室の行事とされる「大嘗祭」は、衆目にさらされることはなく、秘事とされ、行事の真相はなお謎につつまれている。そして(それだからこそ)、おおくの研究者が、あるいは文献に基づいて、あるいはフィールドワークの見地から、抑制的に、ときには、想像たくましく、それぞれの「大嘗祭」論を発表していることはよくしられている。とりわけ、践祚の年の前後には、「論」があまた出版されるであろう。平成天皇のときもそうであった。 いろいろな「論」を読んで、思うところがある。
梅原 賢一郎(教員) アラビア語、ペルシャ語、サンスクリット語、ギリシャ語など、あまたの言語に通じ、多くの著作をものにした、東洋哲学の巨星、井筒俊彦(1914−1993)は、ある著作で、つぎのように書いている。少々長いが読んでいただきたい。
梅原 賢一郎(教員) 道元の『正法眼蔵』は難解な仏教書の定番とされている。しかし、どの点で難解であるのか、じゅうぶんに吟味もされずに、イメージが先行している感がないわけではない。難解さは、境地の深さにあるのか、論理性に問題があるのか、文字の法外な配置にあるのか、などと、丁寧に検討していくと、案外、読めていけるのではないかと、わたしは思っている。そして、そうして読みすすめていくと、『正法眼蔵』は、たんに宗教書というにとどまらず、なんと含蓄のある、おもしろい書物だとも思うのである。 たとえば、わたしは、次の文を読んだとき、思わず、クスッと笑ってしまった。
梅原賢一郎(教員) 漱石の『猫』の迷亭先生にならったわけではないが、美学という学問を一生の仕事にと選んでしまった手前、ちょっと講釈しておきたいことがある。「なぜ、芸術といえば音楽や絵画がメジャーで、食はマイナーなものと評価されがちなのか」。それは、食の主管的な感覚領域と見なされうる味覚領域が、どれほど自律的な対象領域を形成しえているかどうかにかかっていると思われるが、それについては、音楽における聴覚領域や絵画における視覚領域がそうであるほどには、形成しえていないといわざるをえない。
言葉を転がし、言葉を鍛え、言葉を磨く
梅原賢一郎(教員)
仏教書として難解とされている書物に、道元の『正法眼蔵』がある。読んで難しいばかりではない。編集のされ方によって75巻本や95巻本とされているが(ほんとうは100巻にしたかったのだともいわれている)、難解なうえに長大で、これを読みこなすに易しいといえば、だれからも不信の目を向けられるのがおちであろう。どうも、道元は、どこまでも厳格で禁欲的で、近寄りがたいというのがたいていのところである。
しかし、テキストを読むかぎり、ユーモラスな一面が伝わってくる。道元は、曲芸師さながらに、言葉を転がし、自由自在に操る。そこに、天性の遊び心さえ嗅ぎつけることができる。まずは、マジシャンぶりをご覧あれ。
梅原賢一郎(芸術学コース教員)
以前、書斎は家の片隅にあった。そこへは階段をあがり廊下をわたりようやくたどりつくことができた。切りとられた窓からは遠くに京都の夜景が見えた。わたしは、家のなかにあっても、宙に浮いた実験室のようなところで、比較的若い勉学の年月を過ごした。
梅原賢一郎(芸術学コース教員)
日本の仏教思想の書物のなかで、道元の『正法眼蔵』は、難解中の難解とされているようです。素人はもとより、専門家も「敬して遠ざける」のが一般的かもしれません。
難解とされるときの言い分もいろいろあるようです。一つは、「悟りの境地は凡人ではとても及ばない」という先走った讃歎がしからしめる「難解で当然だ」というやや投げやりな態度がもたらすものということができるかもしれません。一つは、もっと実際的で、字面を追おうとしても追うに追えない(非)論理の抵抗に出遭い、既得の読解法ではもうこれ以上進めないという断念に裏打ちされた「難解」というレッテル付けでありましょう。
梅原賢一郎(芸術学コース教授)
最近京都を見てまわっている。私なりの京都巡礼のつもりだ。といっても、かならずしも有名な社寺仏閣を訪ねるのではない。拝観料を払って、靴を脱いで、文化財然と薄暗がりにひそむ像や画の数々に目を凝らし、賛嘆をごちながらの探訪ではない。「祭り」にもいくが、見物や見学というのはあたらないだろう。沿道から、「王朝絵巻」の行列に息を呑みことも、山鉾の巡行の絢爛豪華に酔いしれることもない。
梅原賢一郎(芸術学コース教員)
今年度から『雲母』の芸術学コースのページを一新することにした。 添削や講評をしながら、レポート用紙の上に刻された文字から、これを書いたのはどのような人なのだろうかと、文字を越えて思いをはせるときがある。たとえワープロで書かれたものであっても、きっと、文字がたんなる記号ではなく、血肉といえばいいのか、なにほどかの肉体性を帯びたものとして、目の前に現れているのであろう。そのとき、直に接する機会がどうしても少ない通信教育部ではあるが、遠くして当人と出会っているような気がする。教員の書くものだってそうであろう。そこで、たんなるインフォメーションやアナウンスではなく、自由に書き綴るコラムのようなコーナーを設けることにしたのである。
梅原賢一郎(芸術学コース教員)
滝田洋二郎監督の『おくりびと』が、米アカデミー賞外国語映画賞を受賞したことは、まだ記憶に新しいことです。葬儀のとくに「納棺の儀」を執行する、納棺師を描いた作品でした(観られたかたもたくさんおられると思います)。 映画に関連して、ある宗教人類学者が、NHKの番組で、次のようなことをいっていました。