文献案内:佐藤道信著『〈日本美術〉誕生――近代日本の「ことば」と戦略』

カテゴリー: 過去サイトの記事 |投稿日: 2011年8月12日

中野志保(本学講師)

今回紹介するのは、佐藤道信著『〈日本美術〉誕生――近代日本の「ことば」と戦略』(講談社選書メチエ、講談社、1996年、ISBN-10: 4062580926 /ISBN-13: 978-4062580922)です。

本書は、「日本美術」・「日本美術史」をめぐる概念と歴史体系が、どのように成り立っていったのかが考察するものです。もう少し簡単に言えば、私たちが研 究の対象とし、また、その枠組みとする「日本美術」とは、いったいどういうものなのか、ということを、それが生成された「近代」という時代に遡り、また、 少し離れた視点から捉えようという研究です。

本論は、まず、「美術」、「絵画」、「彫刻」、「工芸」といった言葉は、遠い昔から使われていたもののように思われがちですが、実は近代に入ってから急速 に普及した訳語であるということから始まります。第一章・第二章で、これらの「ことば」の成り立ちを考察し、続く第三章・第四章では、「日本美術」・「日 本美術史」が、ひとつの制度として、様々な――おもに日本の近代化をめぐる政治的な――紆余曲折を経てできあがっていく様相をたどる、という構成になって います。

著者は、あとがきで次のように述べています。「美術を作ることと語ることは同じではない。“作り”はモノにしばられ、“語り”はことばにしばられる。(中 略)本書で見てみたかったのは、まさにその語る主体(“自分”)の歴史と意味だ。(p237)「語る“自分”(主体)の客体化はつねに必要なのであり、そ れはすべての人に共通なのだ。」(p238)と。

本書を読んだ時、私は、「論文を書き、考えていることを外に向かって表明するということは、この学問領域、そしてこの世界に対して――大小はあるにせよ ――なんらかの意味を持った一石を投じることに他ならない」ということに気付かされました。「美」を語ること、「歴史」を語ることの責任を、語る主体であ る「自分」に突きつけられたように感じたのを覚えています。

「日本美術史」の研究は、私的な興味を満足させるためだけに行われているかのように見えてしまう嫌いがあります(実際、研究の視界がそこにとどまってしま う危険も孕むのですが)。しかし、自らの行う研究は、自分に対してだけでなく、自分の外側に対して、どのような意義を持つ/持ち得るのかを、できるだけ客 観的に考えることは、どんな研究者にも必要です。皆さんにとって本書が、これを考えるきっかけとなれば幸いです。

*本記事は著者により加筆修正されました(2011年8月12日)。


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