拈華微笑2012(1):黙するように、語るように

カテゴリー: 『雲母』について |投稿日: 2014年4月1日

梅原賢一郎(芸術学コース教員)

 今年度から『雲母』の芸術学コースのページを一新することにした。
 添削や講評をしながら、レポート用紙の上に刻された文字から、これを書いたのはどのような人なのだろうかと、文字を越えて思いをはせるときがある。たとえワープロで書かれたものであっても、きっと、文字がたんなる記号ではなく、血肉といえばいいのか、なにほどかの肉体性を帯びたものとして、目の前に現れているのであろう。そのとき、直に接する機会がどうしても少ない通信教育部ではあるが、遠くして当人と出会っているような気がする。教員の書くものだってそうであろう。そこで、たんなるインフォメーションやアナウンスではなく、自由に書き綴るコラムのようなコーナーを設けることにしたのである。
 さて、コラムのタイトルである。「天声人語」のような、洒脱な名称はないものか。すると、ない頭を拈って、「拈華微笑(ねんげみしょう)」と出てきた。なぜ出てきたのかはよくわからない。
 いうまでもなく、「拈華微笑」は、禅宗で語り継がれてきた故事に基づく。釈尊がある日のこと霊鷲山での説法のとき、花を拈って、皆に示した。すると、大衆は(何もわからず)黙っていたが、弟子の迦葉尊者だけが、破顔し、微笑した。そこで、世尊は(摩訶迦葉こそが真意を理解しているとして)彼に法を伝授することにした。もっとも、この故事は中国で創作されたものともいわれているが、真偽がもとより問題なのではない。とにもかくにも、「拈華微笑」は、「不立文字」「教下別伝」と同様、仏の教えは言葉によってではなく、以心伝心、阿吽の作動によって伝えられるべきものであるという、禅の要諦を示すものとして、古くから保持されてきたのである。
 かなりの我田引水になるが、芸術作品を前にして、言葉の無力を感じるときがある。では、沈黙すべきか。しかし、沈黙はえてしてネガとしての言葉であり、黙りこくることはそれまた裏返しの限定であることを忘れてはならないであろう。語りづらくても語らなければならないことがあるのである。
 ちなみに、道元は、「拈華微笑」について、興味深いことを言っているが、どうやら紙面は尽きたようである。ない頭を拈って、「拈華微笑」と出てきたが、頭を拈って、誰も微笑んでくれるわけではない。

*記事初出:『雲母』2012年5月号


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