拈華微笑2012(2):志のゆくえ

カテゴリー: 『雲母』について |投稿日: 2014年4月1日

水野千依(芸術学コース教員)

 そよ吹く風が心地よい新緑の季節、みなさん、いかがおすごしでしょうか。
 新入生は、ガイダンスと履修計画を終えて、ようやくテキストと格闘しはじめる頃でしょうか。在学生のかたも、今年こそはと、心新たに課題に取り組んでおられることと思います。学習のペースをつかむまでは誰しも大変ですが、自分なりの環境と時間をつくって、無理のない形で進めていきましょう。
 ところで、みなさんはどうして芸術学を学ぼうと志されたのでしょうか。私の選択は、実を申せば、消去法で最後に残ったのが芸術学(正確には美術史)だったという、何とも消極的な理由でした。
 はるか昔のことになりますが、大学で一般教養を経て専攻を決めるに際し、まず門戸を叩いたのは人類学でした。ちょうどレヴィ=ストロースの翻訳などを手がけていらっしゃったフランス語の恩師に相談すると、「君にはフィールド・ワークはできそうにないなぁ」と、あっさり一笑。そこで食い下がらずに挑めばよかったのですが、哲学や文学やと、ほかにも興味があった当時の私は、あっさり人類学の可能性を閉ざしてしまいました。
 結局、言語とイメージとの狭間にある芸術学という学問の面白さに魅かれ、今日まで、中世末から近世初頭の西洋美術史の研究を続けています。けれど、いま振り返ると、当初断念した人類学への関心というのは、知らず知らずのうちに自分のなかにいまも息づいていることを感じます。いわゆる近代以降に生まれた「芸術」という枠ではとらえがたいさまざまな「イメージ」を、その文化の象徴的行為や儀礼の体系のなかで捉える、いわゆる「イメージ人類学」といわれる動向に、いつしか引き寄せられていました。
 アルプスの雪山にぽつんと佇む古い教会堂の装飾や、イタリアの田園でかつて奇跡を起こすことで信仰を集めた聖母像、そうした像に奉納された信者の手や足を型取りした蠟製像など、およそ「美術史」的には顧みられてこなかったイメージたちに会いにいき、かすかに残るかつての息吹を感じ取る喜びは、私なりのフィールド・ワークの醍醐味といってよいかもしれません。
 おそらく研究というのは、意識して志す対象や方法と、無意識のうちに突き動かされている問題系とが、いつしか交差してこそ、面白くなってくるのかもしれません。
 みなさんも、芸術学の研究手法を学びながらも、自分自身の問題関心を大切に進めていってください。

*記事初出:『雲母』2012年6月号


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