拈華微笑2013(1):拈華微笑
梅原賢一郎(芸術学コース教員)
日本の仏教思想の書物のなかで、道元の『正法眼蔵』は、難解中の難解とされているようです。素人はもとより、専門家も「敬して遠ざける」のが一般的かもしれません。
難解とされるときの言い分もいろいろあるようです。一つは、「悟りの境地は凡人ではとても及ばない」という先走った讃歎がしからしめる「難解で当然だ」というやや投げやりな態度がもたらすものということができるかもしれません。一つは、もっと実際的で、字面を追おうとしても追うに追えない(非)論理の抵抗に出遭い、既得の読解法ではもうこれ以上進めないという断念に裏打ちされた「難解」というレッテル付けでありましょう。
「ふねをもふねならしむ」、同一律を逸脱するかのような表現。「生死去来にあらざるゆゑに生死去来なり」、矛盾律を侵犯するかのような表現。「一心一切法、一切法一心」、とくに意味が見いだせない言葉の反転。「汝得吾あるべし、吾得汝あるべし、得吾汝あるべし、得汝吾あるべし」、謎かけのような語のシャッフル。「その見これ除我慢なり。我もひとつにあらず、慢も多般なり、除法また万差なるべし」、言葉を切断するような外科手術的な表現法(「除我慢」を「除」「我」「慢」に切断する)。そして極めつけは、「光明尽有人々在なるべし、光々自是人々在なり、人々自有人々在なり、光々自有光々在なり、有々尽有有々在なり、尽々有々尽々在なり」のような、ほとんど翻訳不可能な言葉の木っ端微塵でありましょう。まさに言葉の(非)論理(反)規則に立ちすくんでしまいます。
『正法眼蔵』には、「渓水の夜流する声を聞くに悟道す」「桃花のさかりなるをみて、忽然として悟道す」「優曇花を拈じて瞬目したまふ。時に摩訶迦葉尊者、破顔微笑せり」などとあります。渓水の音や桃花の花はどのようだったのでしょうか。どのような感覚的な緊迫のなかで「拈華微笑」が交わされたのでしょうか。それを美学的に論じるにしましても、やはり丹念にテキストを読むことしかないのですが、書かれた言葉の内容によりも、言葉そのもの作動(身振り)に着目する必要があると思います。それを「言葉による洗濯法」と名づけて、『正法眼蔵』の見かけの不透明さ(難解さ)をどうにかして晴らすことはできないものかと、最近、考えています。
*記事初出:『雲母』2013年5月号