拈華微笑2014(3):長崎で考えたこと
三上美和(芸術学コース教員)
連休中初めて訪れた長崎では、復元された出島を楽しみにしていました。大学時代(相当昔ですね)、日本美術史の先生から、出島の復元が決まったことをうかがい、それ以来、よく知られている川原慶賀の出島の絵を立体にしたらどんなだろうと想像を膨らませていました。
そして当日、路面電車に揺られて数分して着いた出島は、思ったよりずっと規模の小さなものでした。現在、十棟の建物が当時の工法通りに復元されているのですが、中に入ってみると、ガランとした空間に当時の様子の写真や、発掘現場から出てきた生活用具等が展示されていたのも、勉強になる反面、やや興ざめな印象でした。
ただ、気を取り直してじっくりと見ていくうち、明治以降、貿易の面で横浜や神戸に遅れをとった長崎が港湾機能の近代化を図った結果、出島は周辺を埋立てられ、実は当時よりかなり狭くなったこと、さらに、復元された建物は当時の半分程度であり、現在も復元作業が続けられている(超長期計画!)ことなどが分かってきました。野外の出島の縮小模型は(これは復元される以前からあったようで、昔訪れた家人も見たことがあるそうです)、これまでのイメージに近い印象をもちました。もっと広々しているというのは勝手な思い込みではなかったのだ、とほっとした反面、今より広いとはいえ、やはり手狭なものだ、ということも改めてわかりました。ほんの数分歩いたら入口から最後まで行き着いてしまう程度の空間を多くのオランダ商人や日本人が行き交い、日本中に多くの貴重な情報が伝えられたのだと、かえって感慨深く思われました。
今回出島に行ってみて、実際の大きさをより正確にとらえることができるようになりました。江戸時代、西洋にあこがれた人たちも、今よりはるかに限られた情報しかないなか、想像を膨らませていた出島を実際に見た時、今の自分よりずっとその落差に驚いたり、感激したりしたのかもしれません。
出島に続き、グラバー園を訪れました。中でも憧れのグラバー邸は、現存する日本最古の木造住宅として重要文化財にも指定されています。こちらはほぼイメージ通りで、丘の中腹にある広々した庭園からは長崎港が一望でき、まさに山の手。手入れの行き届いた庭園には薔薇が咲き乱れていました。ここ数年、「現地研修」のスクーリングでめぐっている横浜山手の洋館と、全体の雰囲気は大変近いものがありました。グラバーは生涯日本にとどまり、息子の倉場富三郎も長崎の発展に尽くしました。日本の近代化を推進したグラバーたち外国商人の日々の暮らしがしのばれたのも、貴重な経験でした。ただ、出島と反対に、小高い丘全体を使ったグラバー園は想定外に広く、移動のバスに乗り遅れそうになった上、寝不足と疲労からバスで酔い、夕食の新鮮なお刺身がほとんど味わえなかったのが心残りです。次回こそは体調万全で出かけよう。
*記事初出:『雲母』2014年7月号