拈華微笑2014(5):ヨコハマトリエンナーレ2014

カテゴリー: 『雲母』について |投稿日: 2014年10月25日

小林留美(芸術学コース教員)

 2001年に始まった現代アートの国際展「横浜トリエンナーレ」も、今年で第5回。申し訳ないことに、過去全てを見ているような忠実な観客ではないのですが、今回、何年かぶりに行ってきました。アーティスティック・ディレクターが美術家の森村泰昌、というのに心をそそられた、というのが本当のところです。
 主会場の横浜美術館で序章も含めて12の挿話に構成された個々の作品や作家を挙げることはとてもできませんので、全体についての感想を。見始めてまもなく「あぁ、なるほど、、、」と思い、最後まで観終わって「やっぱり」と感じたのは、森村ディレクターの意志、と言うのでしょうか、筋の通った丁寧さということでした。それも、こういった規模の現代アート国際展に予想され期待される祝祭性や派手派手しさ、賑やかな何でもあり感からは確実に身を引いた、ある種の「ネガティヴさ」とでも言えそうな印象です。メインタイトルは「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」。
 レイ・ブラッドベリ作『華氏451度』は本を読むこと・所持することが禁止された社会を描いた有名なSF小説ですが、そこからも連想されるように、本展のテーマは「忘却と記憶」なのだと思います。ただ、近年の社会情勢の中であるいはアートの役割として、その重要性や意義ということが積極的に声高に喧伝される「記憶」ではなく、敢えて「忘却」が前面に出されています。それは、むしろネガティヴに否定的に捉えられる言葉を使うことで、掬い取ることのできる営みの領域が広く深くなり、その網の目が複雑に細やかになると考えられたからではないでしょうか。彼はあるインタヴューでインタヴュアーから提示された「態度」という語に同意しているのですが、そういった「ネガティヴさ(決して悪い意味ではなく)」を志向/嗜好する彼の「態度」が本展で示されているということなのでしょう。そのために選ばれたのは、社会の中でアートに向き合って、ある「態度」を採る(ということは、別の「態度」は採らない)ことを自ら選択する作家たちであり、その「態度」のあり方を問う作品たちだったと私には感じられました。
 別会場として倉庫型施設の新港ピア、さらに創造界隈拠点の一つBankART Studio NYKまで、雨の降りだしそうな曇り空の下、日程上観ること・体験することのできなかった作品やパフォーマンスも多々あるのが残念でしたが、個人的には充実した鑑賞経験の一日になりました。

*記事初出:『雲母』2014年11月号


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