拈華微笑2015(1):言葉の曲芸
言葉を転がし、言葉を鍛え、言葉を磨く
梅原賢一郎(教員)
仏教書として難解とされている書物に、道元の『正法眼蔵』がある。読んで難しいばかりではない。編集のされ方によって75巻本や95巻本とされているが(ほんとうは100巻にしたかったのだともいわれている)、難解なうえに長大で、これを読みこなすに易しいといえば、だれからも不信の目を向けられるのがおちであろう。どうも、道元は、どこまでも厳格で禁欲的で、近寄りがたいというのがたいていのところである。
しかし、テキストを読むかぎり、ユーモラスな一面が伝わってくる。道元は、曲芸師さながらに、言葉を転がし、自由自在に操る。そこに、天性の遊び心さえ嗅ぎつけることができる。まずは、マジシャンぶりをご覧あれ。
「中夢あり、夢説あり、説夢あり、夢中あり」。「如水中月の如々は水月なるべし。水如、月如、如中、中如なるべし」。「汝得吾あるべし、吾得汝あるべし、得吾汝あるべし、得汝吾あるべし」。それぞれ、「夢中説夢(夢中、夢を説く)」「如水中月(水中の月の如し)」「汝得吾(汝、我を得)」の、統辞論(語を配列する規則)にのっとって配列された、四文字ないしは三文字から、二文字ないしは三文字を(適当に? )選びだし、まるで、それらを掌で転がし、そのまま、ひょいと、ゲームのテーブルに放り投げたかのようである。お見事と拍手喝采できる人には、次のような表現にも、つられて(?)、拍手を送ってはしまわないであろうか。
「生死去来にあらざるゆゑに生死去来なり」。「やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり」。「いまの漢は漢にあらざるがゆゑに、すなはち漢現なり」。無粋きわまりないことは、ヨーロッパの論理学の基礎中の基礎ともいうべき矛盾律(いかなるものも、Aかつ非Aであることはできない)もけんもほろろのこれらの表現のまえで、頭を抱えて、深淵だと呟いてしまうことであろう。ユーモアのセンスにあふれた人は、むしろ、拍手喝采、次のように唸るであろう。「(否定が否定ではなく、)おお、空中での身の翻り、空中反転だ、着地も決まっている」と。さらに、目が慣れてきた人には、次のような表現に、もう、興奮は絶頂に達するであろう。
「去に生死あり、来に生死あり、生に去来あり、死に去来あり」。これらの「生と死は、去りまた来る」いう平俗きわまりない意味をまとった熟語を構成する四文字は、道元のように転がされてあれば、どのように見えてくるであろうか。四人で命を賭けてなされる空中ブランコのように見えてこないであろうか。デュエットになったり、ソロになったり、行ったり来たり、無限に繰り返す(永遠回帰する)、ある意味、言葉の臨界を示してはいないだろうか。
こうして、道元は、言葉を転がす。なぜそうするのか。それは、言葉にこびりついてくるであろう、手垢にまみれた陳腐な意味の汚れを脱色し、言葉を磨くためであると思われる。曲芸師が肉体を必死に鍛えることにも等しく……。