拈華微笑2015(6):『ドミトリーともきんす』『黄色い本』

カテゴリー: 『雲母』について |投稿日: 2015年10月26日

小林留美(教員)
 今、日本で流通しているヴィジュアルイメージの中で、漫画の占める割合がどれくらいになるのか見当もつきません。どなたでも、大好きな漫画・思い出に残る漫画を複数挙げることができるでしょう。このような場で
「漫画? 」と言われそうですが、少しお話を。

 ご存知の方もおられるでしょうが、表題の2冊の作者は高野文子さん。寡作で知られる彼女が昨年秋、12年ぶりに刊行した新作単行本が『ドミトリーともきんす』です。その12年前が『黄色い本』でした。この、『黄色い本』(4つの短編が収められています)の表題作と『ドミトリーともきんす』の共通点は、どちらも<本>を題材にしているということです。前者はフランスのロジェ・マルタン・デュ・ガールによる長編小説『チボー家の人々』。後者の帯にはこう書いてあります。「不思議な学生寮<ともきんす>。お二階には寮生さんが4人。朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹。…21世紀のいま、ひと組の親子が時空を超えて彼等と出合う。読書の道案内として、一冊どうぞ」。こちらは、著名な日本の科学者たちの一般向けの随筆や科学書のブックガイドとも言えるものなのですね。この二作は扱っている<本>のジャンルも全く異なるわけですが、それ以上に、作風というのでしょうか画風というのでしょうか、それが大きく異なります。彼女のインタビューなどによると、前者は自伝的要素の濃い「自分の気持ちが一番にある」漫画で、往時の彼女と重なる女子高校生である主人公実ッコが、学校と家とを舞台にしたごく個人的な日常生活の中で黄色い本こと『チボー家の人々』を読み続ける、その読書体験の時間が独特の主観的視点で描き出されて行きます。私たちが読む漫画の中で彼女は小説を読む。私たちは彼女と一緒に、バスの中寝床の中でその小説を読み、部屋の中教室の中で登場人物の誰彼と話をするのです。それに対して、後者は、「自分の話ではない」漫画で、「気持ちを込めずに描」かれたある種無機質な絵と計算された抽象度の高い構成とで、若き日の科学者たちの思考の本質が架空の寮母子とのおしゃべりの中にさらりと展開されて行きます。さらに、初出がweb連載だったために、1ページを縦にスクロールする流れの中で読ませるような、コマ割やセリフの書き方の工夫がしてあって、どこか不思議な新鮮さが感じられます。
 このように異なってはいますが、どちらも<本を読むこと>へと私たちを誘い、その喜びを私たちに伝えてくれる、しかもそれを漫画でなければ決してこのようにはできないという形で届けてくれる二作でした。本を読む喜びと漫画を読む喜び、ゆっくりとした幸せな時間が流れます。


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