拈華微笑2015(7):五輪エンブレム問題にみる「類似の悪」

カテゴリー: 『雲母』について |投稿日: 2015年11月25日

熊倉一紗(教員)

 2015年9月1日、佐野研二郎氏デザインの東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムが白紙撤回されました。7月27日にオリビエ・ドビ氏が、自身デザインのベルギー・リエージュ劇場のロゴとエンブレムとの類似を指摘して以来、まさに「炎上の1 ヶ月」でした。
 問題の端緒である五輪エンブレムについては、佐野氏自身が盗用を否定し、専門家の間では「似ていない」とする意見が多かったようです。しかしながら、世論やネット上では「似ている」ことが非難の的となりました。大阪芸術大学教授・純丘曜彰氏は「似ている、などと、他国から物言いがついた時点で、このデザインはケガれている」と指弾しています(INSIGHT NOW! http://www.insightnow.jp/article/8591.2015年8月10日付記事)。では、なぜ似ていることは悪なのでしょうか。

 この類似=悪という考えは、西洋近代のロマン主義の流れにおいて、芸術家が天才的な創造力に基づき作品を制作するとみなされるようになったことが背景にあります。作品と作者との結びつきが強固となり、唯一かつ一回的なものとして制作物のオリジナリティが重視されるようになりました。原章二氏は、類似が近代において嫌忌された理由として、近代がなにより個性や独自性に圧倒的な価値を付与する世界であったからと述べています。「類似が貶められるのは、それが単に混成的なものだからというより、存在論的に劣性を帯びているからである。なにかと似ているものは、先在するそのなにかとの関係において存在を規定される。それは自分の内部に存在の根拠を持ちえなくなる」というわけです(『《類似》の哲学』筑摩書房、1996年)。類似は劣るものだからこそ、作品・作者だけでなく、それを享受する側のアイデンティティを脅かします。国家の威信をかけたイベントであるオリンピックの顔=エンブレムにおいて、他国の作品と類似していることは、日本人の「個性」が犯されたと考えられたのではないでしょうか。先の純丘氏は同じウェブサイト上の記事にて「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず、みずから身を律してこそ、日本のプライド。「日本人」は、ケガレを嫌い、ハジを嫌うのだ。(中略)ケガれたもの、ハジであるものは、オリンピック、パラリンピックという人類の祭典、日本のハレの舞台にあってはならない」といいます。確かに、その後露呈したトレースや無断転載の事実から疑念を抱かれても仕方のない部分はあります。しかし、今回のエンブレム問題とそれらの問題とはレベルは異なるでしょう。エンブレム問題に限定すれば、類似=剽窃としてすぐさま非難を開始するのではなく、類似しているものはなぜかくも忌まわしいのかを議論しなければなりません。新たなエンブレムがつつがなく決定されてそれで幕引きというのではなく、形の類似性と剽窃との違いは何か、公共性をもつデザインのオリジナリティとは何かについて、粘り強く考察を進めるべきだと思われます。


* コメントは受け付けていません。