拈華微笑2016(1):美食漫遊記

カテゴリー: 『雲母』について |投稿日: 2016年4月25日

梅原賢一郎(教員)
 漱石の『猫』の迷亭先生にならったわけではないが、美学という学問を一生の仕事にと選んでしまった手前、ちょっと講釈しておきたいことがある。「なぜ、芸術といえば音楽や絵画がメジャーで、食はマイナーなものと評価されがちなのか」。それは、食の主管的な感覚領域と見なされうる味覚領域が、どれほど自律的な対象領域を形成しえているかどうかにかかっていると思われるが、それについては、音楽における聴覚領域や絵画における視覚領域がそうであるほどには、形成しえていないといわざるをえない。

そう、蕎麦をちょっと啜っただけでも、麺の肌理だとか、喉ごしだとか、味覚だけではおさまりきらない、この場合は、触感というやっかいなものが介在してくるであろう。それに、鮎の塩焼きの場合の形姿だとか、鰻の蒲焼きの場合の匂いだとか、はたまた、魯山人ではないが、数の子を嚼むときのパチパチという音色だとか、つまりは、味覚外的なもろもろの要素がこれ見よがしに食に介入してくるのである。さらに、礼儀作法だとか、健康法だとか、あげくは、宗教性だとか、宇宙論だとか、周辺はあくまでも喧しく、いわば、食を肴に口角泡をとばし我こそはとしゃしゃり出てくる始末なのである。
 だから、こういうことになるのではないか。その自律的な対象領域をほとんど識別することができず、食の領野は、喩えていえば、頂上は猫の額ほどに狭いが、裾野はどこまでも広い山のようで、そうした風土からは、特権的な対象領域に寄生し、ジャーゴン(専門用語)を弄し、おおかたは自らの存在理由のために、寄生先の対象領域を必要以上に高く見積もるであろう、特殊集団(専門家)はきわめて発生しにくいであろうし、認知しうるとすれば、万事に精通した「通」と呼ばれる人たちだけであろう。すなわち、だれもが食べ、だれもが作り、万人に開かれた食こそは、はなからメジャーとかマイナーとかの階層そこのけの究極の民主主義の芸術ではないであろうか。世の美学者たちは、「食の美学」よりも「美食漫遊記」が圧倒的に売れたとしても、とうてい文句はいえないはずである。


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