拈華微笑2016(6):「サイ・トゥオンブリーの写真-変奏のリリシズム」展
小林留美(教員)
そこに何が描かれているのか、はきとした言葉にはしにくい作品というものがあります。いわゆる具象ではない抽象画だから、というわけではおそらくありません。2011年に亡くなり、昨夏、原美術館で日本初の大きな個展が開かれた現代アメリカの作家、サイ・トゥオンブリーの絵画やドローイングは、そういった類の最たるものであるような気がします。そしてこの夏、DIC川村記念美術館で、初めて、彼の写真をまとまって見る機会がありました。
ニューヨークの美術学校学生であった1950年代から始まり、中断を経て、亡くなるまでの100点を並べた今回の写真展は、キャプションを一切その場には付けず(展示マップと作品リストのペーパーはあります)、ほぼ年代順ながらイメージたちの連関や移行を観る者に緩やかに思い巡らせるような考え抜かれた展示で、その絵画やドローイング同様、それについて語る言葉を心の中で探し続けるような時間を過ごしました。写されているものは、例えば、作家の身辺にあった瓶や野菜、花、絵画、彫刻、あるいは室内そのものや風景なのですが、それらは時に極端に接近して一部やディティールが撮られ、時に自然なのか人工物なのかの区別がつかず、もともとピントの甘いポラロイドで撮影した写真を少しざらついた質感の厚紙に複写・拡大するといった制作過程などを採用したということもあって、一枚ヴェールがかぶさったようなニュアンスを持って眼前にあります。そして、そこに何が写されているのか、別の言い方をすれば、作家は何を写そうとしたのか、についての明晰な言語化を宙づりにすると同時に、その写真それ自体の手触りの感触のようなものを呼び起こしてくれるのです。
トゥオンブリー、写真、と続くと必然的にロラン・バルトという名前が出てくるのですが、バルトの言う写真の本質「それはかつてあった」の、「それ(写っているもの)」がクリアに名指されるとき、私たちの眼差しは「写真」を見るよりは「それ」を見ることに向かうでしょう。そのことは、明らかに抽象的な線と形・色で構成された写真に関しても、作家の意図が「それ」の構成に向かっていることが分かるが故に変わりないと思うのです。ですが、トゥオンブリーの写真は、具体的な「それ」への意識(これは何なのか? )と、今、眼前にある「写真」(「それ」を今ここで繋ぎ留めている媒体・メディウムそのもの)への意識双方を揺らぎの中に引き留め、「かつてあった」何かへの少し隔てられた感覚をどこか触覚的に呼び覚ます、そういった独特の密やかな魅力にあふれているものでした。そして、実は、絵画やドローイング、版画さらには彫刻とも通底するトゥオンブリーの特質が、これらの写真にはよく表れているのではないかと感じる展覧会でした。
※ロラン・バルトのサイ・トゥオンブリー論は『美術論集』(沢崎浩平訳、みすず書房、1986年)に所収、また写真については『明るい部屋-写真についての覚書』(花輪光訳、みすず書房、1985年)を参照