クスッと笑ってしまう『正法眼蔵』
梅原 賢一郎(教員)
道元の『正法眼蔵』は難解な仏教書の定番とされている。しかし、どの点で難解であるのか、じゅうぶんに吟味もされずに、イメージが先行している感がないわけではない。難解さは、境地の深さにあるのか、論理性に問題があるのか、文字の法外な配置にあるのか、などと、丁寧に検討していくと、案外、読めていけるのではないかと、わたしは思っている。そして、そうして読みすすめていくと、『正法眼蔵』は、たんに宗教書というにとどまらず、なんと含蓄のある、おもしろい書物だとも思うのである。
たとえば、わたしは、次の文を読んだとき、思わず、クスッと笑ってしまった。
打牛の法たとひよのつねにありとも、仏道の打牛はさらにたづね参学すべし。水牯牛を打牛するか、鉄牛を打牛するか、泥牛を打牛するか。鞭打なるべきか、尽界打なるべきか、尽心打なるべきか、打迸髄なるべきか、拳頭打なるべきか。拳打拳あるべし、牛打牛あるべし。
ざっと訳をしておくと次のようになる。「牛を打つことはたとえ世間であるといっても、仏道における打牛とはなにか、さらにたずねて学ばなければならない。水牛を打つのか、鉄の牛を打つのか、泥の牛を打つのか。鞭で打つのか、世界全体で打つのか、心全体で打つのか、メチャクチャはげしく打つのか、ゲンコツで打つのか。さらに、ゲンコツがゲンコツを打つということもあるだろうし、牛が牛を打つということもあるだろう」。どうだろうか。とどまるところをしらず、脱線していく漫才(たとえば「笑い飯」)のように、「牛を打つ」というありきたりの常識が、茶化され、徹底的に、崩されていくようではないか。
もちろん、漫才と道元とを一緒にすることはできないが、道元の語法(言い回し)には、すこぶる遊興的な側面があることも、また事実だと思われるのである。言葉が深い意味を担うというよりも、表層的なレヴェルで戯れているのである。
また、こんなモザイクのような文もある。クスッと笑うというよりも、細工の巧みさに、ウッと見とれてしまった。
去に生死あり、来に生死あり、生に去来あり、死に去来あり。
「生死去来」という四字熟語がはじめにあったのである。それを「生」「死」「去」「来」と分断したのである。そして、それぞれを一枚のタイルにでもしたように、バランスよく、左右に、壁に貼り付けたのである。嘘と思われるかもしれないが、わたしは、ここに、シンメトリーの妙技を見る。文字を色分けにでもすれば、あざやかな装飾だと気づかれるであろう。
こんなことをいっては、お叱りを受けるかもしれないが、『正法眼蔵』を読むのは楽しい。おもしろい。仏教思想の命脈にしかとつらなりながらも、独自の、いろいろな仕掛けや細工がしてあるからである。
ただ、こうしておもしろくなるまでに、ずいぶんと時間がかかった。若いころから気のむくままに読んで、いまにいたった。そして、まだまだ、じゅうぶんでないと思っている。学ぶとは息の長いことである。ひとつの人生のことだけではない。いくつもの人生をかけても、しおおせないものである。その意味で、学ぶには、はじめもおわりもない。できるのは、ただ、いつもそこ(学びの場)にいることだけである。昨日も今日も明日も。