神宮御神宝の美
比企貴之(教員)
伊勢神宮では、20年に一度、正殿はじめ諸殿舎を新たに造替するとともに、殿内に奉納される装束・神宝などにいたるまでを調進し、新宮に神霊を遷す一大事業がおこなわれる。これを式年遷宮と称す(「式」はさだめの意。「式年」で定めの年の意)。初めて催行されたのは、内宮が持統天皇4年(690)・外宮がその翌々年というから、いまから1,300年余りも昔のことである。以来、先頃2013年(平成25)の催行まで、中世の室町時代に120年ほどの途絶はあったものの、62回を数えている。
式年遷宮というと“荘厳な建物が丸ごと建て替えられる”という象徴的な一大事業に目を奪われがちであるが、今回、ここではあえて同様に一切が新たに造られる殿内奉納の装束・神宝を少しく紹介したい。いずれも平安時代当時の様相をそのまま今日に伝えつつ、当代至高の美術工芸家によって調製される最先端の芸術品でもある。
そもそも装束という言葉からは衣服が想起されようが、言葉の本義は「飾り立てること」であり、神座・殿舎の鋪設品、神様の服飾品、遷御の儀で使用する品々の総称である。一方の神宝とは、神様の御用に供する調度品のことで、紡績具・武具・武器・馬具・楽器・文具・日用品に大別される。こうした神々の御料品は約2,500点にもおよび、前述したようにその時代時代における美術工芸の粋である。
例えば、神宝の一つ木彫りの馬6体である。最近では、第60回が平櫛田中氏、第61回が圓鍔勝三氏といずれも文化勲章受章者の手による。しかし単に馬の造形が写実的であれば良いというわけではない。今日競馬場でお目に掛かるアラブ種というわけにはいかないで、すでに絶滅した鶴斑毛(つるぶちけ)というツートンカラーの日本古来の馬を再現することが求められるのである。また例えば、黄楊櫛(計91枚)の奉製には、鹿児島県指宿の最良の黄楊を約20年間板締めして乾燥させ、10.6㎜幅の櫛に対し歯間0.35㎜で83本、当然一切の機械を使用せずに切り刻む定めである。神様に捧げる御料物にはなにかと規定や制限があり、こうした準備の苦労の枚挙には遑がない。
このように式年遷宮に際しては、当代芸術・技術の粋の結集が集められるのだが、いざ遷宮祭の当日、納められた物品をそのまま奉納できるかというと否である。江戸時代・寛政元年(1789)の式年遷宮での装束・神宝の取り扱いは、
十日頃には、都よりくさぐさの神宝三十七・八荷、御装束司・行事官・神祇権少副もてまゐでたり、いとおどろおどろしき荷のさまなり、
というもので、遷御以前、京都から諸種の神宝が37・38個もの箱に詰められて、役人が持参したが、その様子はいかにも異様な雰囲気であったと記す。 このあと宮域に入った一行は、二鳥居(今日と同位置)で神に供する直前の浄めを受け、
内読合と申す事あり、こは神宝・御装束などの色目本様にくらべて、送文につまじるしするわざなりけり、
と、遷御前日に“読合”がおこなわれる。これは今回の神宝・装束の出来具合を、現役の神宝(古物)の様子=本のさまと比較して、その品目一覧にチェックしていく(そのためこの使者を本様使と称す)。さらに、
そもそも此本様と申スは、すべて物みな末代になりゆけば、つぎつぎにやうかハりて、おろそかになりゆくわざなれば、そこをおもひて、むかしかしこき人のさだめおきたるにやあらむ、…
と本様と合致しているかの確認は、将来故実が不分明となったときのことを憂えた先人の知恵の継承であるという、その目的と意義が述べられている。
かくして神宮御神宝は、その当時における最先端の美術工芸家の手による一級品としての姿を整えるとともに、平安の故実を現在ひいては将来に継承する語り部となるのである。
※古神宝・古装束はせんぐう館および神宮徴古館・農業館で一部拝観可能。
(http://museum.isejingu.or.jp/index.html)