文明の哲学をユーラシア大陸の東端の島国で考える

カテゴリー: 愉快な知識への誘い |投稿日: 2018年2月8日

梅原賢一郎(教員)

2001年9月11日の忌々しい事件の数日後、わたしはある山の頂上にいた。古くから、旧暦の8月1日に、この山の信仰エリアの人たちが、集団で登攀する風習がある。そう、わたしは、「お岩木さん」、本州の北端、津軽の地に〈おわします〉岩木山の頂上にいたのである。もちろん、年に一度の集団登攀の行事(「お山参詣」)に、参加していたのだった。
前日、麓の岩木山神社の広場で、笛や太鼓や鉦の囃子に合わせて、老若男女が、手足を跳ねて、踊っていた。踊り狂っていたといってもいい。とくに、老人の姿が印象的だった。一心不乱に、空が白みはじめるまで、恍惚として、踊り呆けていた。
そして、時折、雲間から、月明かりに照らされて、偉容を見せる「お岩木さん」も圧倒的だった。ああ、あれが、あまたの恵みをもたらす、神がごとき「お岩木さん」……。踊りの囃子に煽られながら、目がとらえた神秘の映像は、脳裏に焼きついて、いまだに離れない。

図1

……、いま、山頂にいる。集団登攀の仲間にまじって、闇のなか、「ご来光」を待っている。いまかいまかと。みなも、思い思いに、石のうえなどに腰をおろし、一様に、太陽の昇ってくるであろう方向に顔をむけている。だが、その日は、東雲の空は曇ったままで、あいにく、「ご来光」を確認することはできなかった。しかし、そんなことよりもなによりも、わたしの内面は不安に押しつぶされそうになりながら、必死に、曖昧な頭脳をめぐらそうとしていた。
あのおぞましい映像を目にした直後から、またどこかで同様のことが起こるのではないか、日本でも、東京でも。世界中が戦争の嵐に巻きこまれるのではないか。わたしは経験したことのない(身に覚えのない)不安に苛まれていた。
そして、同時に、なんだか不思議だった。こうして、ユーラシア大陸の東端の島国の、そのメインランド(本州)の北端の、コニーデ式の美しい山の頂上で、太陽を仰ごうとしている。ここは、なにごともなかったかのように、まったく静かで、人たちは、おなじように幾年もくりかえされたであろうように、「ご来光」を待ちのぞんでいる。
どうして、わたしはここにいるのか。いったい、いることの意味はあるのか。あるとすれば、それはなにか。ここに登ってこれない人はいるのか。登ることを拒絶される人はいるのか。いや、どんな僧衣を纏っていようとも、どんな法衣に包まれていようとも、「お岩木さん」が拒むことはないはずだ。それどころか、「お岩木さん」は歓迎するにちがいない。あてのない想念が八方に飛びちり、わたしの内面は虚しさでいっぱいだった。

図2

わたしは、若い頃から、祭りに魅せられて、全国各地を回っていた。そのなかでも、よく通った祭りの一つに、「遠山の霜月祭り」がある。南信濃の山間の、谷筋を流れる川沿いの、狭隘な土地のあちこちで、12月の初旬、おなじような「お湯の祭り」が執りおこなわれる。宮崎駿の、湯屋が舞台の映画作品、『千と千尋の神隠し』のモデルになったともいわれているが、土地の人たちはそんなことには無頓着で、ただ、伝えられた祭りを、おなじように幾年もくりかえし、おこなっているにすぎない。
ところで、「遠山の霜月祭り」では、全国の一宮をはじめ、津々浦々の神々が招待され、お湯でもって饗応されるわけであるが、もちろん、近隣のインティメートな神霊たちも招集され、お湯が献上される。要するに、お湯でもってあまたの神々を清め、英気を養っていただくのである。ただし、一括して、漠然と、神々にお湯が献上されるのではない。そこのところは、じつに、細やかで、神々の名簿ともいうべき「神名帳」に記載された神の名が読みあげられ、あるいは、歌の詞章のなかに神の名が挿さまれ、一々、丁寧に、神々が招喚される。
さて、9・11の年のことであったか、ちょっとあとの年のことであったか、ある地区の祭りに参加していたときのことである。夜の帳がおりてはじまった祭りもたけなわ、眠い、寒い、煙いで、意識も曖昧になってきたころ、たしかに、聞こえてきた。そう、一通りの神々の名のあとに、仏教者の名もつづいて聞こえてきた。釈迦牟尼仏、弘法大師、伝教大師、法然上人、親鸞上人、道元禅師という具合に。ああ、これが神仏習合ということなのかと一瞬にして納得させられるものがあったが、それも束の間、わたしの想念はさらに遠くへと飛んでいた。ここに、異貌の神々の名があったとしても……と。

祭りのけっして排他的ではない宗教的土壌は、いったい、なにであろうか。なにに由来するのであろうか。考えれば考えるほどわからなくもなるが、考えてみなければならない問題ではある。

図3

文明の哲学を考えるうえで、なおざりにできない出来事を、9・11のほかに、もう一つあげるとすれば、それは、やはり、2011年の3・11であろう。なかでも、人為ではどうすることもできない地震や津波はおくとして、問題は、自然災害が誘発した原発事故である。いったい、人類文明は、作ってはいけないものまで作ってしまったのであろうか。「自然災害でもなく、人災でもなく、文明災である」と、原発事故について述べた哲学者がいたが、はたして、人類文明は、その巨大な廃棄物が、自然環境のなかで容易には循環できないものまで、つまり、作ってはならないものまで、作ってしまったというべきなのであろうか。歯止めのない科学技術の発展がもたらした、核兵器や原子力の問題も、あらためて、考え直さなければならない。

以上のような、突発的なカタストロフ(破局)が引き金となって、考えさせられる問題のことはさておき、わたしは、日頃から、ユーラシア大陸の東端の島国で、以下のようなことを考えていた。

わたしは、若い頃から、ヨーロッパの哲学をいろいろと学んできたが、やがて、次のように考えるようになった。アリストテレスを読んでいても、アウグスティヌスを読んでいても、デカルトを読んでいても、ニーチェを読んでいても、それぞれの哲学の様相はちがうが、彼らが依拠する根本的な論理(ロゴス)は共通しているのではないかと。
第一に、彼らがいう「ある」とはなにか。パルメニデスは「あるものはある、ないものはない」といったといわれるが、彼らにとって、「ある」は百あり、「ない」は零である。つまり、事物は「ある」か「ない」かのどちらかであり、どちらかでないものはないのである。これは、いいようによっては、事物に「ある」か「ない」かを強要することにほかならない。
彼らとはちがって、わたしは、次のように謳う人も知っている。「陽炎に等しいのに、世界が存在する、あるいは存在しない、と固執する人には、迷妄がある」(ナーガールジュナ)と。これは、ものの真相に「ある」とか「ない」とかを割り当てることはできないということである。逆にいえば、「ある」と「ない」とで割り切った途端に、世界は変質してしまうということである。
また、「ある」か「ない」かであれば、当然、〈「ある」かつ「ない」〉は成立しないことになる。しかし、わたしは、そのようなこともおかまいなしに、次のように話す人も知っている。「やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり」(道元)と。
ユーラシア大陸の東端の島国で、わたしが思うことは、ただ、次のことである。なにかものを考えるときに依拠すべき根本的な論理(ロゴス)、いわば、論理(ロゴス)の母胎のようなもの、それは、地球上に、一つしかないのではないということ。だれしもがそれに依拠して思考すべき絶対的な論理(ロゴス)などというものはないということ。すくなくとも、ユーラシア大陸の東端の島国でものを考えるわたしには、依拠すべき根本的な論理(ロゴス)が二重にあるということ。あるいは、多重にあるかもしれないということ。そのことが、標準化(一元化)のいきすぎた地球には、いま、重要ではないかということである。

また、意識というようなものを考えてみよう。ヨーロッパの哲学は、やはり、意識の哲学ということができる。アウグスティヌスの『告白』を読んでいると、神を、神の似姿である自身の内面に、とことん、見いだそうとしていくが、それは、自身の内面の意識化であろうし、その徹底した作業には、ただただ、驚嘆するしかないのである。デカルトのコギト(考える我)は、もちろん、意識に明瞭にとらえられるものであろう。ニーチェが、永劫回帰の思想を開陳し、忌々しい「かつてそうであった」を「そうであったことを欲した」につくりかえようとするとき、それは、比類ない意志の表明であろうが、その意志は、やはり、意識のなかで、遂行されるのであろう。そして、このように、ヨーロッパの哲学が概して意識の哲学であるということも、その依拠すべき「論理(ロゴス)の母胎」に関係しているのだと思われる。
しかし、ユーラシア大陸の東端の島国で、わたしは、むしろ、意識よりも、無意識の哲学のあることを知っている(唯識の哲学など)。そして、たとえば、悪は、アウグスティヌスにとって、人間の自由意志(それはたぶんに意識化されているものであろう)がなすものであったが、きっぱりと、次のように言う人を知っている。「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず、また害せじと思ふとも、百人・千人をころすこともあるべし」(親鸞)と。とりあえずは、悪は、人間の意識の範疇をこえているということであろう。
いずれにしても、すくなくとも、わたしには、依拠すべき「論理(ロゴス)の母胎」が、二重にあるのである。

言葉というものをとりあげてみても、どうであろうか。「初めに言葉があった、そしてその言葉は神とともにあった、そして言葉は神であった」(ヨハネ福音書)と「縁起という真理にあっては、日常の言語活動が止滅している」(ナーガールジュナ)とのあいだには大きな懸隔があるといわなければならない。言葉のメタレヴェルを問いながら、たえず自己撞着に曝されてあるような、言葉の危険な綱渡りともいうべき禅の公案(禅問答)も、もちろん、後者の命脈のなかでしかと息づいているのである。

図4

以上、2018年を迎えての、感懐である。
ぺらぺらとおしゃべりをしつづけるのではなく、いちど、立ちどまって、考えてみてはどうであろうか。そう、考えることを考えてみてはどうであろうか。


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