蓮華王院と平安時代末の芸術品

カテゴリー: コースサイト記事愉快な知識への誘い |投稿日: 2018年12月21日

比企貴之(教員)
 京都駅から市営バスに乗り、10分足らずでバス停・博物館三十三間堂前に着く。そこでバスを降車すると京都国立博物館、道路を挟んで反対側には蓮華王院三十三間堂がみえる。蓮華王院は、今日、国宝建築として名高く、本学の学生のうちにも「行ったのは一度や二度ではない」という人も少なくなかろう。

 さて、この蓮華王院であるが、その歴史を遡るとその創建は平安時代末(いわゆる院政期)の長寛2年(1164)のこと、平清盛という人物により建てられた。ただ、創建者について少し立ち入った話をすれば、この地一帯は当時、後白河上皇(1127~92)の院御所である法住寺殿の区画であり、当初は五重塔などを備えるた本格的な伽藍が整備されたものであった。後白河上皇による法住寺殿御所の造営は、先々帝白河上皇の法勝寺以下六勝寺造営に象徴的な白河殿、先帝鳥羽上皇による鳥羽殿という離宮造営の都市計画に連なるものといえる。そして蓮華王院は、こうした法住寺殿の一角に宝蔵として清盛により創建されたのである。

法住寺殿・六波羅殿位置関係図

法住寺殿・六波羅殿位置関係図


 閑話休題。蓮華王院は、その後の鎌倉時代に火災に罹災したり、南北朝時代の内乱の渦中には宝物そのものが仁和寺に移転されるなど、機転変を経ることとなった。ただし、20世紀以来の文学・歴史学方面の研究の成果により、全貌は未詳ながらも収蔵されていたであろう〔典籍〕〔絵画〕〔楽器・楽譜〕などの品目の大凡が判明している。一例として、
〔絵画〕であれば、
 ・年中行事絵巻
 ・御契御幸絵
 ・後三年合戦絵
 ・八幡宮縁起
 ・六道絵
 ・長恨歌絵
 ・當麻寺新曼荼羅
 ・法然上人画像
のごとくである。如上のラインナップは、彼の帝王としての来歴にかかわるものであったり、後白河上皇の神や仏などに対する信仰観を示すものであろう。なお、年中行事絵巻や後三年合戦絵などは、今日『日本絵巻物大成』のシリーズで気軽に眺めることができるし、六道絵なども神仏信仰であるとか往生や地獄をテーマとした博物館展示で必ずといっていいほど列品されるものなので、図録などを探して確認して欲しい。
 いずれにしても蓮華王院とは、「後白河上皇の愛した芸術空間・遺愛の空間であったとい
ってよい。
 「芸術」といってしまうと、蓮華王院に収められていたのは、そのすべての文物が見る人・読む人になんらかの感動を催させるものであり、美術史的な観点から当代のものとしてきわめて高水準なものばかりであったかのように思われるが、後白河上皇の宝蔵は必ずしもそうした審美眼に基づいて収集していたわけではなさそうである。
 例えば、やはり院政期に成立したと考えられている説話集(古くからの伝承であったり、エピソード的なものも含む「伝えられてきた話」)『古今著聞集』の397段(第十六 書画)には次のような話がある。
 後白河院の時代。年中行事を絵として描かれたところ、たいそう良くできており珍重のあまり松殿基房へと進め一見するべくご命令なされた。(基房は)事細かに確認をおこない、誤りがある箇所には一つずつ押紙をして(付箋をつけて)、基房の手ずからメモを書き入れていき、そうして上皇へとご返却なされた。上皇はこれを見て、本来ならメモにしたがい絵の書き直しをするべきところ、「基房ほどの人物が自筆で押紙をしたのであるから、どうしてそれを剥がして絵の修正をおこなうことがあろうか。この押紙により“誤りのある年中行事絵”は、もはや貴重な宝物となったのである。」といって、蓮華王院の宝蔵に収蔵なされた。その押紙はいまでも貼ったままであるという。なんとも望外のことである。
 松殿基房(1144~1230)とは、いわゆる藤原摂関家の一員で、父に藤原忠通を持つ。兄には近衛家の祖である基実、弟にはこれまた九条家をおこした兼実がいる。基房もまた松殿家の家祖という立場にあり、兄弟いずれもが院政期から中世にかけての政治の中枢に位置し続けた。なお、ちなみに彼らの弟には延暦寺の僧侶となり、歴史書『愚管抄』を著したことでも知られる慈円がいた。
 さて、基房自身は政治的には成功しなかったが、彼は有職故実(宮中の作法・典礼・官職・服飾あるいは儀式にかんするさまざまな知識)に通暁した人物として、貴族社会の尊敬を集めていた。鎌倉時代に入ってからも、多くの貴族が彼のもとを訪れ、教えを請うたとされている。
 すなわち、さきの『古今著聞集』の話において、後白河上皇が完成した宮中の年中行事を描いた作品を基房のもとに送り、その指南を仰いでいることにはこうした背景があったわけである。だが、実際いくつかの誤謬があり、それについて付箋を貼られた、しかもそれが当代随一の有職家である基房の手による校訂であることにより上皇はそれを宝物としたということである。
 このような事例をみると蓮華王院という宝蔵は、確かに、今日的な水準からも芸術品が多く集められたし、その文学・歴史学・美術史あらゆる方面に意義ある存在であったといえそうだが、当の後白河上皇本人にとっては自分の興味関心の向くまま、種々のものをいっぱいに詰め込んだ宝箱といった感覚ではなかっただろうか。
 参考文献:
  黒板勝美・丸山二郎校訂『古今著聞集』岩波書店、1940
  棚橋光男『後白河法皇〈講談社メチエ65〉』講談社、1995
  本郷恵子『物語の舞台を歩く 古今著聞集』山川出版社、2010


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