「最近の講義と研究について」

カテゴリー: KUAブログ |投稿日: 2020年12月11日

三上美和(芸術学コース教員)

【写真1】三渓園外観

【写真1】三渓園外観

みなさんこんにちは、三上です。いよいよ師走になりましたね。今年一年、本当にお疲れ様でした。コロナ禍でつらい目に合われた方に、心よりお見舞い申し上げます。
 

〇最近の講義について  
芸術学コースでも、コロナの流行が始まってからは遠隔授業が主体となりました。最初は不安もありましたが、今は対面の講義とそれほど変わらないと感じてます。多くの遠隔授業を経験している学生は、おそらく我々教員より遠隔授業に慣れているのではないかと思います。

遠隔会議システムで顔が映るように操作すると、普段の教室よりもお互いの顔がはっきり見え、間近で話し合っているような雰囲気になります。つい先日も学部と大学院合同の遠隔によるスクーリングがあったのですが、二日目の最後には活発な意見交換があり、「密」ではないけれど、密度の濃い二日間でした。

この講義のテーマは芸術の支援者で、横浜の実業家の原三溪と三溪より若い世代の支援者たちを取り上げました。三溪の蒐集した美術品はほぼ散逸しましたが、三溪が造園し、明治末期に一般に開放された三溪園(【写真1】)は、四季折々の自然のなか、貴重な古建築で私たちを楽しませてくれています。本コースのスクーリング「芸術学フィールドワーク」でも、例年5月末、三溪園を訪問しています(以前、このブログでも紹介しました)。今年はコロナで遠隔授業となってしまいましたが、いつもは京都で参加されている金子典正先生が仏像の講義をされ、新入生、在学生と一緒に金子先生のお話しを聞くことが出来ました。

先述した大学院と学部合同の講義では、例年新たな研究動向を盛り込んで内容を更新しているのですが、今年は三溪関連の新しい論考を4件も追加しました。三溪を例に挙げるまでもないことですが、研究とは、これまでの研究成果に自分なりの新たな見解を加えることです。どんな小さな論点でも、そのテーマについてこれまで言われてこなかったことなら、それはそれについての最新の知見ですし、誰かがまた、さらにそれについて新たな見解を提起したなら、自分の研究は更新されたことになります。研究は、そのように誰かが前の人の知見を踏まえながら、別の考え方や事実を加えていって少しずつ進められていきます。。ひとつずつは小さな点でも、先行研究から見ると長い線になる。自分の研究もその線のつらなりになることを目標に、みなさんも意欲的に卒論や修論に取り組んでほしいと思います。

 

〇今取り組んでいる論文のこと
さて、先述した最近の講義では、三溪の支援をより深く理解するために、三溪より若い世代の支援者として、細川護立、大原孫三郎、三溪の長男の原善一郎を取り上げています。講義でも少し触れましたが、細川は一時期、陶芸家河井寛次郎に大きな関心を寄せていました。現在はこの両者の関係を軸に、河井の初期活動について論考をまとめています。

河井寛次郎(1890-1966)は、民芸に創意を得て制作した近代陶芸家です。生涯を通じて精力的に制作し、実に個性的で魅力的な作品を多数残しました。河井は島根県安来市に生まれました。安来中学校で優秀な成績を修め、東京高等工業学校の無試験入学資格を得て同校進学後、京都市立陶磁器試験場に就職しました。その後、京都五条坂の清水六兵衛から窯を買い、そこに新居を立て移住し、この地で生涯制作に打ち込みました。河井の旧宅と窯は現在、河井寛次郎記念館として公開されています(【写真2、3、4】)。

【写真2】河井寛次郎記念館外観

【写真2】河井寛次郎記念館外観

【写真3】河井寛次郎記念館内の登り窯①

【写真3】河井寛次郎記念館内の登り窯①

【写真4】河井寛次郎記念館内の登り窯②

【写真4】河井寛次郎記念館内の登り窯②

河井は安来の大工の棟梁の家の次男として生まれました。早くから文学にも関心を示し、詩を書いたりする文学少年でした。利発で快活な性格だったことから、周囲の人々は皆、将来政治家になるのではと思っていたそうです。そんな河井少年が陶芸の道に進んだのは、年譜によると医師である叔父の足立健三郎が勧めたからだったといいます。足立健三郎は東京帝国大学を卒業後、京都府立医学校で産婦人科学の先駆者として活躍し、芸術にも造形が深く、河井にも多大な影響を与えた人物とされています(鷺珠江監修、同他編『没後50年 河井寛次郎展―過去が咲いてゐる今、未来の蕾で一杯な今―』展図録、2016-18年)。それにしても、なぜ叔父は河井少年に陶芸の道を勧めたのか、私は以前から不思議でした。

明治初期から中期頃、日本の工芸品は、江戸時代に培われた高い技術を駆使した、装飾豊かな作風で海外の人気を博し、多数輸出されました。近年、明治期の輸出工芸は「超絶技巧」として再評価され、展覧会も開催されているため御存知の方もいるかもしれません。

しかし、明治30年頃までにはその流行にも陰りが見られ、方向転換が模索されていました。また、明治40年に設立された文部省美術展覧会(文展)には、日本画、洋画、彫刻の三部門から編成され、工芸分野が官展に入るのは、かなり後の昭和2年(1927)でした。したがって、河井が陶芸の道を志した頃、まだ陶芸は産業的な側面が強かったと言えるでしょう。

このように、まだ陶芸家が珍しかった時代、河井はかねて好きだった東洋の古陶磁に範を取った作風で、陶磁器研究者や古陶磁愛好家たちに絶賛されるという幸運なスタートを切ります。河井の初期の作風を高く評価した古陶磁愛好家の一人に、先述した細川護立もいました。今用意している論文では、こうした河井の初期活動の一端の解明を目指しています。先述したように、私の論文も河井研究の連なりのひとつにしなくてはなりません。河井の将来の選択に重要な役割を果たした叔父についても、何か分かったらまた御報告したいと思います。

これから寒さも本格的になります。何かと気ぜわしい年末年始ですが、どうかくれぐれも御自愛されますように。


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