東洋哲学を自由に演奏する

カテゴリー: コースサイト記事 |投稿日: 2018年10月20日

梅原 賢一郎(教員)
 アラビア語、ペルシャ語、サンスクリット語、ギリシャ語など、あまたの言語に通じ、多くの著作をものにした、東洋哲学の巨星、井筒俊彦(1914−1993)は、ある著作で、つぎのように書いている。少々長いが読んでいただきたい。

 厳密な文献学的方法による古典研究とは違って、こういう人達(独創的な思想家)の古典の読み方は、あるいは多分に恣意的、独断的であるかもしれない。結局は一種の誤読にすぎないでもあろう。だが、このような「誤読」のプロセスを経ることによってこそ、過去の思想家たちは現在に生き返り、彼らの思想は溌剌たる今の思想として、新しい生を生きはじめるのだ。ドゥルーズによって「誤読」されたカントやニーチェは、専門家によって文献学的に描き出されたカントやニーチェとはまるで違う。デリダの「戦略的」な解釈空間にたち現われてくるルソーやヘーゲルは、もはや過去の思想家ではない。
 西洋思想のこのような現状に比べれば、東洋思想、東洋哲学の世界は沈滞していると言わざるを得ない。もちろん、研究者の数は多い。現に日本でも無数の専門家たちが、今も昔も変りなく、東洋思想の貴重な文化的遺産を、孜々として研究している。だが、それらの思想文化の遺産を、己れの真に創作的な思惟の原点として、現代という時代の知的要請に応じつつ、生きた形で展開しているといえるような、つまり東洋哲学の古典を創造的に「誤読」して、そこに己れの思想を打ち建てつつあるような、独創的な思想家は、残念ながら我々のまわりには見当らない。(『意味の深みへ』)

 私は、ある日、これを読んで、勇気づけられた。近年、東洋哲学にも親しむようにしていて、そこには、豊かな知の資源(井筒がいうところの「文化的遺産」)があるのに気づくようになった。以前も関心をもってはいたが、まだまだ、釈迦や孔子や老子の人生観や処世術の上っ面を撫でるだけで、資源としての知の岩盤を自覚するようなことはなかった(といまは思う)。
 西洋においては、古代ギリシャ哲学以来の「知の岩盤」がある。そこから、多くの独創的な哲学が生まれていった。「誤訳」と井筒はいうが、それは、「岩盤」のたゆむことのない再解釈(うがった表現を用いれば、反芻)の歴史であったであろう。英語のインタープリテーション(interpretation)には、解釈の意味とならんで演奏の意味があるが、まさに、「岩盤」が古典的なテキスト(楽譜)だとすると、そこから、多彩で魅力的な解釈(演奏)がどんどん誕生していったのである。
 東洋哲学における「知の資源(岩盤)」とはなにか。それは、容易には、他と交換することのできない、あるいは、他に還元することのできない、東洋に固有な知の理法のことである。たとえば、大乗仏教における、中観派の「縁起と空」の理法、唯識派の「識」の理法、華厳の「一即多」の理法、などがそれであろう。あるいは、仏教以外でも、汎神論の精髄ともいうべき、ウパニシャッド哲学の「梵我一如」などもそうであろう。
 私は、それらの「岩盤」をまえに、わくわくしている。そうした「岩盤」から、楽理を盗み、固有な旋法を導きだし、自由な演奏がしたいと、いま、わくわくしているのである。


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