古都にてギリシア・ローマの美を偲ぶ

カテゴリー: コースサイト記事愉快な知識への誘い美術館・展覧会情報 |投稿日: 2019年8月3日

佐藤真理恵(教員)

京都ギリシアローマ美術館外観

京都ギリシアローマ美術館外観

 日本で、しかも京都で古代ギリシア・ローマの美術作品を鑑賞できることをご存じだろうか。洛北は北山の閑静な住宅街のなかにひっそりと佇む、その名も「京都ギリシアローマ美術館」は、日本で唯一の古代地中海美術コレクションを擁する私設美術館である。ややもすると見落として通り過ぎてしまいそうなほど館が奥まっているうえ、きょうびHPももたず発信される情報が限られていることからも、しばしば隠れ家と称されるこの珍しい美術館について、ここで少し紹介してみたい。

目印の控えめな看板

目印の控えめな看板


 この美術館は、ギリシア・ローマ美術のコレクターである蜷川(にながわ)明・岸子夫妻が40年にわたり蒐集した品々を保存・展示すべく、平成9年4月に京都に開設された。22年前の開館というわりと新しい美術館ではあるが、じつはそこに至るまでには、歴史的に興味深い経緯がある。まず、この美術館の実質上の前身として倉敷蜷川美術館が昭和47年に倉敷に開設され、そののちに上述の京都での美術館開設にあたり倉敷に収蔵されていた品々が移設されたという。学芸員の方によると、収蔵品の移動・設置は、クレーンや専用の機材を用いた大掛かりなものであったという。しかし、それにしても、なぜ京都なのか。
 その理由は、館長蜷川氏の祖父に関係がある。その人の名は蜷川式胤(のりたね)(1835-1882年)。日本美術に詳しい方ならばご存じかもしれないが、京都出身の官僚にして古美術研究家で、明治5年に初めて正倉院の扉を開き、国宝指定制度および京都国立博物館の設立に尽力した功労者である。彼はまた、ボストン美術館はじめ海外に日本の陶器を紹介した立役者としても知られている。ちなみに、アニメ『一休さん』のなかで主人公のよき相棒として登場する「新右衛門さん」のモデルとなった蜷川親当(ちかまさ)は、遡れば親戚にあたるという。
 ともかく、京都ギリシアローマ美術館は、この式胤氏の偉業を記念し、彼の故郷に開設されたというわけである。日本の陶器を西洋に紹介した式胤氏の孫である明氏が、今度は逆に、西洋美術の源流たる古代ギリシア・ローマの陶器に魅せられ、それらを日本に紹介する役回りを演じることになるとは、なんとも不思議な巡り合わせである。

門から入り口までのアプローチにひそむコリント式柱頭

門から入り口までのアプローチにひそむコリント式柱頭


 次に、美術館の誇る展示品について簡単に述べておきたい。パンフレットによると、ここには、紀元前3000年から紀元200年頃までの彫刻・装身具・奉納品・モザイク等約150点、ならびにクラシック期およびヘレニズム期の壺絵約100点を所蔵しているとのこと。これらはすべて、欧州各国から数回にわたり船で運んできたのだそうだ。
 まず門をくぐり、さまざまな植物に囲まれたアプローチを歩む道すがらにも、其処此処に古代の円柱や柱頭が控えめに隠れている。そして玄関の扉を開けると、古代ローマの彫像やモザイクが出迎えてくれる。もちろん、すべて本物である(ミロのヴィーナスのみ現代の摸刻)。1階には他にも大理石彫像や石棺が陳列されている。なかでも筆者を惹きつけたのは、2世紀に作られた、クロビュロス(大きな髪の束)をもつ優雅な女性の頭部像である。蜜色に光を透かすような、乳白色の大理石に刻まれた波打つ髪が美しく、かつては象嵌が施されていたであろう切れ長の目も端正で、しばし見入ってしまった。
 2階には、エトルリアを中心とした陶器や奉納品が展示されている。エトルリア文明はいまだ未知の部分が多いが、奉納品などには宗教観や高度な土器生成技術を垣間見ることができ、興味深い。また、犠牲の動物の代替品である土製の豚や猪、あるいは馬用の豪奢な金属製装飾品なども目にすることができる。

パンフレットより

パンフレットより


 そして、なんといっても特筆すべきは、やはり3階に展示されている古代ギリシア陶器の数々であろう。かなり大型のアンフォラも多数で、保存状態も良い。なかんずくアンティメネスの画家による黒像式ヒュドリア《ディオニュソスの出発》(前520年頃)は、黒像式の持ち味であるシャープなシルエットによって馬の美しい肢体が描き出されており、必見である。このフロアには黒像(黒絵)式と赤像(赤絵)式の両方の陶器画が並んでおり、比較してみると、技法上「反転像」として捉えられることの多い両者のあいだには、じつはたんなる技法上・様式上の違いにとどまらず、主題の選択や表象にも差異があることを確認することができる。また、陶器は彫刻と同様に立体であるため、表面の画面のみならず裏面や内側も含めて鑑賞することが望ましいのだが、ここでは四方から鑑賞できるうえ、死角にあたる部分も鏡越しに見ることができる。また、小さな銘については、拡大した書き起こしも表示するなどの工夫がなされている。
 それにつけても、このたび間近で鑑賞し、ギリシア陶器画の黒色の部分に塗布されている高濃度の粘土液が、漆塗りに比肩するほどの艶やかな光沢を帯びていることに改めて驚嘆した。

 所蔵品の内容から察するに、蜷川夫妻はギリシアの壺の蒐集にことのほか情熱を注いでいたようだが、ここで、古代ギリシア陶器についていささか補足しておきたい。
 本邦においては、古代ギリシア美術のコレクションはいまだ決して多いとはいえず、いわんや彫刻作品ではなく陶器画となればなおさら稀有である。しかしこれはなにもわが国に限ったことではなく、古代ギリシアを「祖先」と仰ぐ西洋においても、じつは似たり寄ったりの状況である。ギリシア彫刻やフリーズについてはローマン・コピーなどの夥しい摸作が制作され蒐集されてきたいっぽう、ギリシア陶器画は、稀に15世紀のロレンツォ・デ・メディチのような好事家らによって蒐集されていた例こそあるものの、一般的には、彫刻などに比べ、長らく芸術的価値を認められてこなかったきらいがある。その理由としては、古代ギリシアにおいて陶器が神事や祭儀から日常にいたるまで広汎に用いられてきたゆえの作品数の多さ、ならびに出土・保存状態の悪さ、はたまた絵画に対する彫刻の優位というヒエラルキー等々、さまざまな要因が考えられるだろう。
 いずれにせよ、古代ギリシア彫刻の権威化や礼賛とは対照的に、陶器画は長らくギリシア美術の端役に甘んじてきたといっても過言ではない。ギリシア陶器画が学術的な研究対象とみなされ、年代鑑定などの考古学的調査が開始されたのは、じつに19世紀後半にはいってからであった。ちなみに、この分野の研究に先鞭を付けた人物のひとりに、高名な指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの父であり考古学者であった、アドルフ・フルトヴェングラー(1853-1907年)がいる。
 その後、20世紀前半より、オクスフォード大学らの主導のもと、世界各地に散在するギリシア陶器画の記録・集成プロジェクトCorpus Vasorum Antiquorumが始動するなど、ようやく体系的な調査が行われるようになってきた。かくのごとく、ギリシア陶器画研究はいまなお進行形であり、解明されていない部分もまだまだ多く残っている。じっさい、本国ギリシアの国立博物館・美術館においてすら、数点の著名な作品を除き、いまだにろくに分類すらされず、キャプションすら付されぬまま陳列されている陶器画のなんと多いことか。今後の研究の進展と展示の改善が俟たれるところである。

新アクロポリス美術館(アテネ)におけるギリシア陶器展示例

新アクロポリス美術館(アテネ)におけるギリシア陶器展示例


 このような状況に鑑みても、ギリシアローマ美術館が、陶器画の蒐集・保管にくわえ、手探りながらも展示に工夫を重ねてきた意義は大きい。たとえばキャプションにかんしていえば、大理石の産地や出土についてのデータが付されていないものも散見されるものの、作品によっては銘の抄訳や用途などの詳細な解説がなされており、作品の理解に役立つ。わけても、壺絵の黒絵式/赤絵式の様式上・制作上の差異については、分かり易い解説パネルも用意されている。また、ほとんどの作品がガラスケースなしの状態で展示されているため、普段なかなかお目にかかれない彫刻や壺の裏側や細部を間近で鑑賞することができる。それゆえ、彫像に用いられている大理石の質感の違いや彩色の跡、あるいは陶器画の素地と釉薬塗布部分の厚みの差などを、はっきりと確認できる。あえて要望を言えば、所蔵品のカタログや図録を作成・販売してほしいところだが、それは今後に期待したい。
 ところで、館長の蜷川明氏は古代美術の専門家ではないため、学術研究の対象としてではなく趣味で陶器類を蒐集したとのことだが、その鑑識眼がむしろこの美術館をユニークたらしめているように思われる。わが国では古くより器を愛でることが趣味として確固とした地位を得ていたが、このように器を芸術品とみなす習慣は、じつは世界的にみてそれほど普遍的なものではないのかもしれない。その意味でも、この美術館は、古代ギリシアの陶器文化と東洋の好事家との幸運な出逢いの賜であるといえるのではないだろうか。

休憩室での喫茶

休憩室での喫茶


 幸か不幸か、いつ訪れても今のところ混雑していることはなく、心ゆくまで作品を鑑賞できる。また、ひとしきり鑑賞した後は、大文字山を望む4階の瀟洒な休憩室(マイセンの素晴らしいコレクションあり)でゆったりと喫茶を楽しむこともできる。
 今回私が訪れたのは日曜の昼下がりだったが、3時間程の滞在中に遭遇した来訪者は、なんと一人だけであった。上記のように落ち着いて作品を鑑賞できることはわれわれにとっては贅沢な体験だが、美術館の役割などを考えると、勿体ない気もする。学芸員の方いわく、私設であるため助成金も受けられず、経営はなかなか難儀とのこと。また、前回訪れた約15年前と比べいくつか変更された点があり、そこにも私設美術館経営の苦労が垣間見えた。しかしながら、この美術館は、古代ギリシア・ローマ美術をひろく紹介するとともに学術研究にも寄与したいとの創設者の言のとおり、上記のようにさまざまな工夫を重ねながら、今日も来館者の眼を楽しませてくれている。今後も、徐々にでも愛好者を増やしつつ、古代美術の普及に寄与していただきたいと強く願う。
 なお、2ヶ月に1度程度のペースで、専門家による講演会などのイベントも開催しているとのこと。春には正門の桜を愛でるもよし、夏には涼やかな風が吹き抜けるテラスで過ごすもよし。折しも来夏は、ギリシアのオリンピアから東京に聖火が運ばれる。スクーリングや行事等で京都を訪れた際にでも、この美術館に立ち寄り、古典古代を感じてみてはいかがだろうか。

【利用案内】
京都ギリシアローマ美術館
開館時間:10時‐17時
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日休館。1・2月休館)
入館料:一般1000円
〒606-0831
京都市左京区下鴨北園町1-72
Tel. 075-791-3561


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