拈華微笑2013(2):作品をみること

カテゴリー: 『雲母』について |投稿日: 2014年4月10日

水野千依(芸術学コース教員)

 漆黒の背景に優美に佇む聖母子。今春、東京の駅構内や車内で、その姿を目にした人は多いだろう。国立西洋美術館で開催されている『ラファエロ展』の顔となる《大公の聖母》だ。左腕にイエスを抱く立像は、東方正教会が「神の母(テオトコス)」の表現として確立した聖母類型のひとつ「ホデゲトリア型」に倣っている。しかしラファエロの作品では、金地や厳格な正面観などビザンティン美術に特有の超越的な聖性を顕示する要素は抑制され、幼子は溌剌とした視線を画面の外に注ぎ、聖母は目を伏し静謐な微笑みを浮かべている。身体は輪郭線に閉ざされることなく黒地に融解し、穏やかな陰翳により、親密さとともに気高さを、実在感とともに崇高さを湛えている。均整のとれた簡潔な構図、確かな形態把握、色調の微妙な階梯と繊細な明暗の起伏、そしてきめ細やかな仕上げ、まさに盛期ルネサンスを代表するラファエロ芸術の優美の結晶といえる。

 …このように書くと、まるで展覧会の宣伝文句と思われるかもしれない。たしかに実物を見る機会は貴重であり、芸術学を志す皆さんにはさまざまな展覧会に足を運ぶことをお勧めする。しかしここで伝えたいのは、展覧会の素晴らしさでもラファエロの妙技でもない。むしろ「作品を見る」という行為に含まれる諸問題を意識化することについて考えてみたい。

 今回の展覧会で本作をめぐって重要な発見が公表された。聖母が姿を現す背景の黒地が実は後世のもので、ラファエロの本来の画面では、風景に面した窓のある室内が描かれていたことが科学調査から判明したのだ。概してこのような発見の折には、オリジナルの価値を重視して後世の加筆層は除去され、ラファエロの画面がいかなるものであったかを再現するのが常套であろう。しかし今回はオリジナルの絵画面の損傷が激しいため、加筆層の除去は控えられ、X線によって浮かび上がった下層の室内表現を写真で補う展示となっている。

 さて、ここで考えてみたい。この画面を前にして、私たちは何を見るのか。写真で提示された構図を黒地に投影しながら頭のなかでラファエロの真なる画面を想像するのか、それとも、制作当初から長い年月を経て辛うじて生きながらえてきた作品を寿ぎ、その死後生のなかで《大公の聖母》の記憶を形成してきた黒地にみる後世の趣味や受容形態も含めて、作品表面に堆積した時間の厚みを汲みとるのか、それとも、黒地に分かちがたいほど繊細に描き込まれたイエスの柔らかな髪や消えゆく肉体の輪郭、精緻な光輪など、修復家によって美的に復元された画面を現代の作品受容のあり方として嘆賞するのか。

 時を刻んだ作品は、歴史に抗って制作当初の姿を取り戻すことはありえない。作品が経た「時」は、破壊者にも創造主にもなりうる。支持体の板や絵具の顔料がラファエロの聖母として存在するのは、ひょっとすると、それぞれの物質の生命のほんの一瞬なのかもしれない。息をのむほど優美な聖母を前に何を見るのか、それは私たちひとりひとりに委ねられている。

*記事初出:『雲母』2013年6月号


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